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「00年代以前のクラブジャズ」と「00年以降の現代ジャズ」の違い

※クラブジャズについては以下のリアルタイムの00年代に書かれた記事も参照してみください。
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■クラブジャズは?現代ジャズとは?

すごくざっくり説明すると、

◎クラブジャズ…「踊らせること」「クラブでDJによってプレイされること」を目的として作られた《ダンスミュージック》

◎現代ジャズ…「ヒップホップやテクノに影響を受けているけど、踊らせることや、クラブでプレイされることを目的に作られてはいない《ジャズ》

だと僕は考えています。

つまり、クラブジャズは基本的にクラブでDJが使えるかどうかな音楽なわけです。逆に現代ジャズは、踊れる曲もある(かもしれない)けど、必ずしもDJ的に使いやすい曲わけではないという違いは重要だと思います。

だから、クラブジャズに関してはDJが使えるかどうかみたいなすごくシンプルな部分が重要だし、そういったルールに基づいて曲が作られています。逆に言うと、演奏のすごさとかは全く必要ではないとも言えます。むしろ、シンプルな四つ打ちとか、サンバとか、ワルツが最強なんですね。

という視点で、Jazz The New Chapterで取り上げているような今のジャズを見ると「ヒップホップやR&B、ビートミュージックなどダンスミュージックから影響を受けているけど、躍らせるために作っているわけではないし、DJ的な有用性を意識してもない」ので、DJ的には自分のプレイの中に入れるのはすごく難しいのではないでしょうか。つまり、新しいけど、使えないという意味では、厄介な存在なのかもしれないよね。

Jazz The New Chapter》的なものと、《クラブジャズ》って、ジャズの要素がある(と言われている)って部分だけで、実は全く別物。近いのは表層だけかなっていう気がします。だから、JTNCは90-00年代的なクラブジャズ・カルチャーとは相性が良くない。実際にJTNCの誌面ではクラブジャズ不在なんです。これは僕があくまでジャズの本を作りたいと思ってやっているから必然的にそうなってしまう。

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■ロバート・グラスパーはクラブジャズ?

ロバート・グラスパーJディラのビートを生演奏に置き換えようとはしているけど、そこにはクラブでDJがプレイする(プレイしやすい)云々の意図は全く入っていないと思うんですよ。Jディラのビートのズレたりもたったりする音楽的な特性をジャズミュージシャンによる生演奏でどう解釈するか、ということが目的で、ヒップホップそのものにすること、そのものに近づけることとは別物だと思うんですよね。だから<J Dillarude>をアコースティックのピアノトリオで演奏するし、ロバート・グラスパー・エクスペリメント以降でもデリック・ホッジの引き算的で繊細なベースプレイなどDJの使い勝手なんて全く考えてないサウンドばかり。グラスパーってたぶんクラブジャズDJ泣かせですよね。

■クラブジャズの音楽的特徴

逆にクラブジャズの特徴は、DJが使いやすいということが優先されている。ノーザンソウルとかハウスとかアシッドジャズと同じで、ダンスありきのDJカルチャーの中のものだと思うんですよ。クラブカルチャーありきの音楽。二コラ・コンテ辺りを聴いてもよくわかるけど、曲によっていろんなスタイルがあるけど、躍りやすいテンポで踊りやすいグルーヴが重視されていて、時には四つ打ち的なビートが仕込まれていて、音楽の骨格自体はディスコやハウスに近いものが多かったりも。ジャズ的な4ビートの場合でも、くっきりとしたドラムやベースラインをきちんと鳴らしているのも特徴的。あとは、繋ぎやすいように頭にドラムブレイクが用意されていたり、ジャズにありがちなイントロのピアノソロなどを置かずにいきなりドンっと曲が始ったり(同じようにアウトロもぼんやりさせずにスパッと終わったり)、他には、それぞれの楽器がぱっきり分かれていてミックスしやすいようになっていたり。DJがいかに使いやすいようにするかという工夫が凝らされているので、そこにフォーカスして聴いてみると、見えてくるものは多いはず。

という目線でJTNCとクラブジャズ双方から人気の高いハイエイタス・カイヨーテを見てみても面白い。JTNCだと<Swamp Thing>とか<Shaolin Monk Motherfunk>みたいなビートがヨレていたり、メンバーが異なるタイム感で演奏していたり、一曲の中でめまぐるしくリズムや曲調が変わったりするところに新しさを感じているんだけど、クラブジャズ的にはおそらく<By Fire>のシンプルなビートミュージック感がいいみたい。頭もドンっといきなり始まるから、その辺も使いやすそう。あくまでも使えるかどうかで他の要素はばっさりと切る潔さもダンスミュージックには大切なことですね。


だから、僕にとってはゴーゴー・ペンギンもクラブジャズじゃないんですよね。エイフェックス・ツインフォーテットなどの《エレクトロニックミュージックの音楽的な特徴を人力で生演奏に置きかえている》けど、クラブでかけるためのサウンドを作っているわけじゃないし、実際にDJ的に使えるのかというと疑問かなと。そうするには現状では、リミックスが必要な気もします。


同じような意味で、デヴィッド・ボウイ『★』にも参加していたマーク・ジュリアナダニー・マッキャスリンもエレクトロニックミュージックのサウンドから影響を受けているけど、クラブジャズとは違うものかなと思って扱っていました。あれも踊れないだろうし、DJ的に使いにくいだろうから。それゆえに彼らのサウンドがクラブジャズの側から評価を受けているのもあまり見ないです。



■クラブジャズと現代ジャズの両方から支持されるアーティストとは

例えば、そんなクラブジャズの壁を乗り越えたのが、グレゴリー・ポーターだと思うんだけど、彼がクラブシーンでウケた理由の中には当初から自身の代表曲<1960What>のクラブジャズ的に使いやすいリミックスがいくつか存在したからだと思う。そこから始まって、ニコラ・コンテに起用されて、最終的にディスクロジャーとのコラボレーション<Holding On>に繋がったこともそういった経緯の結果かなと。


また、ホセ・ジェイムズもグレゴリー同様クラブシーンから愛されている一人ですね。彼のキャリアを見てみると、DJのジャイルス・ピーターソンのレーベル、Brownswoodからデビューがあって、その後、ムーディーマンフライング・ロータスミツ・ザ・ビーツとのコラボアルバム『Blackmagic』があって、ティモ・ラッシージャザノヴァニコラ・コンテムーディーマンベースメント・ジャックスとのフィーチャリング曲が生まれている。クラブシーンとこれだけ密に繋がっている現代ジャズの音楽家は珍しい。(しかし、近年はUSでの高い評価を背景に徐々にクラブジャズ的な要素が消えてきている。)


グレゴリーとホセには《DJにとって使いやすい曲がある》というクラブジャズ的に最も必要な条件があるんですね。逆に言えば、その一点があれば評価されるし、その一点以外はほとんど関係ないのがクラブジャズだと言ってもいいでしょう。いくらマーク・ジュリアナやゴーゴー・ペンギンが色んな音楽的なアイデアを持ち込んで生演奏で実現しても、DJ的に使えなければそこは取り立てて評価されない、という感じでしょうか。JTNCで取り上げているジャズに関してはこのクラブジャズがフォーカスしない(=評価しない)部分を深く掘り下げています。そういう意味でも、これまでのクラブジャズの聴き方とは全く違うものを提示しているというのがわかってもらえるかと思います。

個人的に思うのは、グラスパーもそうですし、それ以前だと、ゴーゴー・ペンギンのルーツとも言える伝説的なトリオ エスビョルン・スヴェンソン・トリオ(e.s.t.)が、ずいぶん前から日本でも知られていはいたのに、彼らがやっている音楽的な面白さがなかなか理解されなかったり受け入れられなかったのは、無理やりクラブジャズとして輸入しようとしたからってのはあると思っています。DJが推薦するって文脈に頼ってしまったゆえのミスマッチじゃないかなと。彼らがブラッド・メルドー『Largo』でやったのと同じように、レディオヘッドなどがやっていたプログラミングによるサウンドやエフェクティブなサウンドを人力で置き換えようとした部分が抜け落ちていたかなと。それ故に、ヨーロッパのジャズシーンでの影響力はずっと語られ続けていたけど、日本では忘れ去られてしまったのかなという気がします。


■クラブジャズと批評・音楽史の関係

それには、クラブジャズにおける批評の不在という、クラブジャズの構造的な問題のせいもあるのかなと思っています。

クラブジャズって、《躍るため》《DJが使える》って基準で、ジャズの様々な要素をばっさり切ってたんだけど、一緒に《ジャズ批評》とも距離を置いたんですよね。ジャズ内のこれまでの権威を片っ端から《躍れるかどうか》を基準に否定するためには歴史や批評から遠ざかろうとしたんだと思います。

クラブジャズ系の文章を読んでいると、「過去の評論家が無視(もしくは低い評価)していた」「歴史に埋もれていた」ものをDJが発掘した/光を当てたという言説に度々ぶつかります。でも、実際にスウィングジャーナル誌など(の彼らが仮想敵としていた権威)を読んでみると、普通に取り上げられてはいるし、評価もされている事例も多くて、特に敵対するものでもないようにも見えます。例えば、ファラオ・サンダースなんかもそうで、スピリチュアルジャズなんて呼ばれるものも総じて取り上げられていて、ジャズ評論家の岩浪洋三さんは自著でファラオをかなり大きく取り上げています。ただ、裏返すとそういう仮想敵やカウンターとしての役割がいないとクラブジャズの物語は作れなかったのかなと。否定すればするほど、歴史や過去の批評が立ち上って来るという意味では、なかなか難しい道を選んだのだなとは思います。

とはいえ、そうした歴史や批評と向き合う必要性を感じ取っていた人たちはクラブシーンにもいました。

LAのカルロス・ニーニョはジャズミュージシャンではないけれども、真摯に歴史に向き合っていた重要人物で、ドゥワイト・トリブルネイト・モーガンらを起用し、丁寧に西海岸のジャズの歴史を現在の若手のミュージシャンと繋げていたことは、ジャズ評論をテキストとして書くこととほとんど同じような行為だったと思うし、ティグラン・ハマシアンが自身のルーツであるアルメニアの古謡を研究するような行為と同じだと思います。

デトロイトでもカール・クレイグデトロイトのブラックミュージックの歴史とコネクトするためにトライブ・レーベルフィル・ラネリン、更にはマーカス・ベルグレイブレジーナ・カータージェリ・アレンまでを迎え入れたりしていて、明確にデトロイトのジャズ史をプレゼンテーションする意味があったように思います。これもカルロス・ニーニョ同様に批評と同じ行為と言っていいですね。

そこに加えるとしたら、カルロス・ニーニョのプロジェクト、ビルド・アン・アークの鍵盤がブランドン・コールマンだったり、アレンジャーがミゲル・アトウッド・ファーガソンだったり、カール・クレイグのデトロイト・エクスペリメントのドラマーはカリーム・リギンスだったり、確実に現在の動きに繋がる部分もすでに用意されていたこと。歴史を正しく追えば、必然的に過去は未来に繋がってしまう。こういう動きがJTNCで紹介したような今の状況を生んだ理由に少なからずなっていたことは間違いない。ちなみにそのデトロイトでマーカス・ベルグレイブからジャズの手ほどきを受けたケニー・ギャレットがフックアップしたのがクリス・デイブであり、ジャマイア・ウィリアムスだという話とも繋がります。

■クラブジャズと現代ジャズ、それぞれにおけるスピリチュアルジャズ

という流れで語るべきはカマシ・ワシントンですね。

JTNCではジャズ、もしくはその周辺の黒人音楽の歴史との接続を解明することにも力を入れています。特にLAのシーンについてはLAジャズ史を紐解くための論考も入れています。

カマシの音楽にスピリチュアルジャズの要素があるとは言っても、クラブジャズ文脈のTwo Banks Of Fourなどとは全然違うと思います。表層だけ見ているとスピリチュアルジャズ的なサウンドだから近く見えるけど、僕はカマシ・ワシントンのサウンドをクラブジャズ経由のスピリチュアルジャズとは全くの別物として見ています。

カマシ・ワシントンに関しては、スピリチュアルジャズというスタイルを選んだのではなく、彼が育ったLAのシーンの歴史の延長で、自身のコミュニティーのなかで受け継がれてきたサウンドを自身が引き継いでいる。だから、コミュニティーで演奏されつづけている今の音楽として彼はあのスタイルのジャズをプレイしている。そこにヒップホップ育ちのサンダーキャットロナルド・ブルーナーJrブランドン・コールマンなどのミュージシャンで、彼らによるヒップホップなどの音楽的な特性をジャズミュージシャンが生演奏に置きかえるようなサウンドだったり、00年以降のゴスペル由来のドラマーのリズム感が入っている。スタイルを選んだというよりは、自分たちのキャリアをそのまま投影しているという言った方が正しいサウンドだと思います。カマシのサックスに関しても、コルトレーンやファラオのスタイルを模しているのではなく、ホレス・タプスコット人脈などLAのミュージシャンから受け継いだものや彼の世代のサックス奏者にとってのヒーローでもあるケニー・ギャレットのスタイルからの影響を受けていると思います。『The Epic』には、DJが使いやすいようにしてある曲って少ないんですよ。というか、使いやすいように作ってある曲がない。イントロとかやたら長いしね。

以下参照希望 

逆にTwo Banks Of Fourレアグルーヴの延長で、過去のレコードの中から踊れる音楽を選んできた結果、ファラオ・サンダースブラックジャズストラタースト的なスピリチュアルジャズをピックアップして、スタイルをコピーしているという感じではないでしょうか。過去のレコードをDJがプレイするのと同じように過去のスピリチュアルジャズというスタイルを演奏している。なので、DJ的に使える曲ばかりではあります。

HMVでの鼎談「Jazz The New Chapter」 重版記念放談 ~DJから見た現代ジャズの地平で、

小浜:この本は、レアグルーヴやフリーソウルという言葉を使わない方法で書かれているのがすごく“今っぽい“。便宜的には使いやすいワードなんだけど、あえてというか、アンチというか。
柳樂:レアグルーヴとかフリーソウルとはまた違ったラインをそろそろ作らないとっていう考えが個人的にあって。だから、これまでのクラブ経由のジャズの語り方とは違う本なんですよ。ジャズの歴史と繋げる意識を明確に持ってやっていましたからね。
小浜:クラブジャズとの距離の測り方というか、この本には、レアグルーヴ、フリーソウルに続いて、クラブジャズ的な文脈もほぼ入っていないわけですよね。
柳樂:入れてない理由はあるんですよ。本の中心をアメリカのメインストリームのジャズにしたかったんで。実際、クラブジャズ・シーンってヨーロッパとか日本だから、アメリカのメインストリームに繋がらないんですよね。小さい接点はあるんだけど。

と書いてあるんですが、これはそういうクラブジャズと現代ジャズの違いを感じてもらえれば、よくわかる言葉かと思います。

そんな感じで、クラブジャズとJTNCで扱っているような現代ジャズとの違いについて、僕の見解が伝わればと思います。

■クラブジャズと現代ジャズを繋ぐアーティストたち

最期にクラブジャズとかジャズとかそういう言葉を乗り越えて、面白い動きをしているマーク・ド・クライブロウを紹介します。90-00年代にはUKでブロークンビーツのシーンで活動していて、完全にクラブジャズ系アーティスト扱いでしたが、元々はバークリー出身のジャズピアニスト。そんな彼がLAに移住してからは、ブロークンビーツ経由のビートメイカーとしての自分と、ジャズピアニストとしての自分を自在に行き来しながら、LAのジャズミュージシャンたちと作ったアルバム『Church』が素晴らしいんです。

以前、僕はこのアルバムについて、こんなことを雑誌に書きました。

「ジャズとUKクラブシーン両方を通過した演奏家による生演奏を核に据えたサウンドは、図らずもクラブジャズという言葉の意味や存在を問うているようでもある。そして、それはダンスミュージックの中にある(ジャズフィーリングでもジャジーでもない)”ジャズ”の存在を演奏家自身が定義し直しているようにも聴こえてるのだ。」

クラブジャズの中にいた人間がリリースしたこのアルバムを僕は《クラブジャズの墓標》のようなアルバムのようにも感じました。そのマーク・ド・クライブロウがピアノやローズと共に、カオスパッドやサンプラーを駆使し新しい生演奏を提示していることが、巨匠ハーヴィー・メイソンのドラムのプレイスタイルまでにも影響を与えていることには驚きました。

マーク・ド・クライブロウだけでなく、 マーカス・ギルモアの生演奏ビートを使ったテイラー・マクファーリンや、LAのジャズバンド ニーバディーと《ニーデラス》としてコラボレーションしたデイデラスなど、ジャズとダンスミュージックの関係も、生演奏とプログラミングの関係も大きく進化しています。


「踊らせる」ということに縛られることなく、ジャズミュージシャン達が自分のクリエイティブを優先しながら、ジャズがエレクトロニックミュージックやヒップホップと力強く結びついた新たな音楽が生まれる時代が始まったとも言えるのかもしれません。

彼らのような音楽家は僕らの頭の中にある《ジャズ》のイメージをも変えてくれるだろうし、これからの《ジャズ》の楽しみ方も変えてくれるような気がしています。何かのカウンターではなく、ジャズの中から、ジャズを拡張したり、ジャズの境界線を食い破って飛び出していくような彼らの音楽を表す音楽はおそらくまだ名前はついていませんし、今後も適切な名前は見つからないかもしれません。とりあえず、新しい名前が見つかるまで、僕は《ジャズ》と呼び続けようとは思っていますが。

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※現代ジャズについては以下の記事も参考にしていただけると嬉しいです。

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