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伊藤ゴロー アンサンブル 『アーキテクト・ジョビン』

※Jazz Japanという雑誌から伊藤ゴローさんのインタビューを依頼されたんですけど、編集部からのメールをちゃんと読んでなくて、ディスクレビューもやると勘違いしてて、頼まれてないのにレビュー書いちゃったんで、加筆してここに載せます。
Jazz Japanのインタビュー、面白いからぜひ読んでください。

➡『アーキテクト・ジョビン』Apple Musicで聴けます https://itun.es/jp/ITsHkb

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最初に資料を見た時にボサノヴァの巨人アントニオ・カルロス・ジョビンの曲をジョビンが影響を受けたと言われるラヴェルドビュッシーを思わせる室内楽的に再解釈するアルバムという感じの情報が書いてあった。その時点で坂本龍一『CASA』のコンセプトに近いのかななどと思っていた自分がいた。あのアルバムは坂本がジョビンの曲をボサノヴァではなく、クラシック音楽として解釈したアルバムだった。

柳樂『既存の音楽を違う枠組みで考えるみたいなことは坂本さんがずっとやってることですよね。僕は坂本さんがボサノヴァをやっている『CASA』がすごく好きで、あれはジョビンの曲をボサノヴァではなくて、ある種のクラシックとしてやるという意識ですよね。つまり、今までのジョビンの聴き方みたいなものとは全く違うものを聴かせてくれたアルバムなんですよね。』
坂本龍一『僕はジョビンの音楽を聴いたときに、ショパンとか、ドビュッシーと並べても見劣りのしない素晴らしい曲だなと思ったので、ジョビンのそういう顔を紹介してあげたかったんですね。僕も気が付いたのはジョビンの家に行ったときです。ピアノの上に、楽譜がいっぱい積んであって、ほとんどがショパンやドビュッシーだったんです。その時にジョビンはポピュラーミュージックを作る中で、骨子部分はそういう風に作りたかったんだろうなと思ったんです。骨組みになっているところはショパンやドビュッシーのようなものなんだろうなと。これは勝手な解釈かもしれないですけどね。』

これは僕が坂本龍一にインタビューした際の一節だが、この伊藤ゴローのアルバムはそういうものなのかなと、聴く前には思っていた。ただ、聴いてみるとそれとはまた別の音楽が鳴っていたことに驚いた。

例えば、NAOMI & GOROとしても演っている「トゥー・カイツ」の原曲と全く違うサウンドやデザインに度肝を抜かれた。軽快なリズムに乗って華やかかつ壮大なアレンジで、二つの凧が大空を舞っていくような情景を描くこの曲の原曲のイメージは全く残っていない。引き算的にミニマムなサウンドに書き換えられているだけでなく、やわらかさく重なっていくというよりも時折ピリッと引き締めるように奏でられるハーモニーなどが極めてクールだ。叙情や情感みたいなものに流される瞬間が極めて少ない。

このアルバムは、ジョビン・ファンにはおなじみのジョビンが晩年に残した傑作『ヴィニシウスを歌う』のような室内楽ボサノヴァ的なものをイメージしているとその全く違う質感や手触り、設計、構成に驚くだろう。ジョビンらしい自然賛歌的なオーガニックさやブラジル音楽特有のサウダージ的な情感が薄く、どこまでも人工的(=構築的)なクールさが全編を貫く。ピアノやギター、ストリングスと編成はオーガニックだが、歌もの的なメロディーの少なさや、時折現れるミニマルな展開、まるでエディットしたようにパッと楽器が切り替わる構成などでジョビンのイメージを覆しながらも、ジョビンの要素を的確に抽出して拡大したり引き延ばし、ある意味ではどこまでもジョビン的であるというのも面白い。言うまでもないが、ブラジル音楽を特徴づける最大の要素でもあるドラムやパーカッションなどのリズムもこのアルバムでは鳴っていない。

そもそも僕の中で、伊藤ゴローという人はボサノヴァの人ではない。僕は彼がやっていたMoosehillというプロジェクトが大好きだった。伊藤ゴローらしいアコースティックなサウンドの柔らかさと、エレクトロニカ/ポストロック的なポストプロダクションやエレクトロニクスがスムースに溶け合った『wolf song』やworld standardとのコラボレーションでリリースした『FUTARI graceful silence』のようなサウンドが僕の中での伊藤ゴローだった。このジョビン曲集を聴いたときに思い出したのはNAOMI&GOROでボサノヴァをやっている伊藤ゴローではなく、エレクトロニクスと戯れる伊藤ゴローだった。このアルバムはボサノヴァの楽曲をアコースティックの生演奏でカヴァーしたもので構成されている。ただ、ぼくにはこのアルバムはむしろ人工的でエレクトロニクス的な感覚の音楽に聴こえてしまう。

伊藤ゴロー「曲によって、ピアノはプリペアドじゃないけど、ハンマーのところにフェルトを敷いたりしてます。腕のいい調律師さんと相談して、いろいろ仕掛けを作ってもらったりして。例えば、ピアノの木のカヴァーも外してもらったんだけど、そうすると鍵盤が動いちゃうんですよ。要はハンマーに上手く命中しなくなって、隣の音が出てしまったりして、半音違いの、かなりアヴァンギャルドな音がしてたり。それを活かした音作りをしてますね。あと、ピアノの素の音って強いんで、他の音に紛れてほしいっていうか、曲によってはレイヤーになってほしい曲もあるから、ほとんどの曲は割とソフトな音にしてます。そのために楽器のごつごつした内臓音もマイクを立てて録るようにしたりとか、いろんなことをしてますよ。」

こんな発言を聴くとわかるが、そもそもこのアルバムは普通のアコースティックの室内楽的なアルバムですらないのだ。

それで思い出したのが、坂本龍一の『Three』『レヴェナント』だ。例えば、『Three』は坂本の過去の名曲をジャキス・モレレンバウムとのトリオで、ものすごく遅いテンポで演奏している。つまりそれはテンポを落として、隙間をたっぷりと作り、ゆったりと広がりながら減衰していくピアノや、ゆっくりと伸び縮みするような弦楽器のサステインなどの音響や音色をメロディアスの楽曲を演奏する中で取り出していくようなサウンドだと思う。『レヴェナント』はというと、こだわり抜いた音色で奏でられたギリギリのところでメロディーになるかならないかの瀬戸際で印象を残すメインテーマのように、音楽と音響の間のようなサウンドがこのアルバムを魅力的なものにしている。もちろんこれは坂本の長いキャリアの中にあるクラシックや現代音楽から来た部分もあるが、クリスチャン・フェネスアルヴァ・ノトとのエレクトロニカ/音響的な音楽から来た部分も大きいだろう。

『アーキテクト・ジョビン』と坂本龍一の諸作のベクトルは全く違う。ただ、そんなエレクトロニカやポストロックなどを経た後のクラシック音楽というような雰囲気を両方に感じるのだ。

そういえば、『アーキテクト・ジョビン』の中で、「シャンソン・プール・ミシェル」だけに既存のジョビンらしさがそのまま、まるっと残されていて、その「らしさ」がスパイスとなって、他の楽曲にある特異性を引き立てているような気がした。『アーキテクト・ジョビン』とジョビンの音楽を比べてみると、とにかくあからさまな共通点よりも新鮮な差異が目立つ。しかし、これもまたジョビンなのだと伊藤ゴローは教えてくれているような気もする。つまりこのアルバムは、デフォルメやコスプレではない新たなジョビン観の提示なんだと思う。

ブラジル音楽に精通している友人は僕によく言うのだ。「柳樂さん、ブラジル音楽は「歌」ですから。例え、インストでもメロディーを大事にして、そこから歌が聴こえてこないとダメなんです」と。このアルバムを聴いて、その意味が逆説的に分かった気がする。多くのブラジル音楽にはメロディーや歌が相当強烈に組み込まれているのだと。ただ、それと同時に、ジョビンの音楽は、メロディーや歌がここまで削ぎ落とされても、美しさはいくらでも残っているのだと。ブラジル音楽の多面性や深みをここまで鮮やかにみせてくれたアルバムを僕は他に知らない。

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