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サラ・エリザベス・チャールズとフランク・オーシャンと坂本龍一とバート・バカラックのこと

ここ1ヶ月くらいになんとなく頭に浮かんで、移動中に軽く音源を聴き返したり、酒の席で友人に話したりしていたことをメモ的に書いておくことに。話半分で読んでください。

今年の秋にサラ・エリザベス・チャールズというミュージシャンが新作を出した。

『Free of Form』(http://www.coreport.jp/catalog/jazz_vocal/rpoz-10035.html )というタイトルで、プロデューサーとしてトランぺッターのクリスチャン・スコットがクレジットされていた。クリスチャン・スコットは数年前から《Stretch Music》というコンセプトを掲げ、新たなジャズを模索しているミュージシャンで、今年リリースされたジャズの初録音から100年たったことをコンセプトにした3部作『Ruler Rebel』『Diaspora』『The Emancipation Procrastination』https://christianscott.bandcamp.com )では、これまでにも取り入れていたレディオヘッド的なロックのテイストだけでなく、トラップなどの最新のヒップホップの要素をジャズに取り込むような先進的な人でもある。言うまでもないが、『Free of Form』にもそのクリスチャン・スコットの音楽性が反映されている。ただ、ここではクリスチャンが3部作で見せたエフェクトやポストプロダクションを駆使した尖ったサウンド作りはかなり後退している。にもかかわらず僕にとってこの『Free of Form』というアルバムは、むしろクリスチャンの3部作同様に新しいものに聴こえたし、さらに言えば今の時代の雰囲気を確実に捉えているようにも感じた。初めて聴いて以来、このアルバムは僕にとって特別なものになっていて何度も聴いている。

そんな彼女のアルバムをとても自然に日常に寄り添ってくれるジャジーなシンガー・ソング・ライターを聞き流すように、何度も日常の中で聴いていて感じたのは、どうやら僕はクリスチャンも関与したジャンルを超えたサウンドや、サラの歌声だけではなく、おそらく作曲家としてのサラ・エリザベス・チャールズに惹かれているのではないかということだった。このアルバムを特別なものにしているのもおそらくサラが紡ぐメロディーなのではないかと思うようになった。

そして、聴いていてふと思ったのは、どこかフランク・オーシャンと通じるものがあることだった。これは僕がぼんやりと感じたことで、NYに住むハイチのDNAを持ったカラードの女性ジャズシンガーがフォークやインディーロックにも通じるサウンドをジャズミュージシャンたちと共に奏でているという複雑に入り組んだコンテキストからだったとは思う。そんなことを考えていたら、リリースされてからずっと気になりつつも、何度聴いても新しさや素晴らしさが感覚的にわかるだけで、一向に掴めないまま、折に触れて聴き直していたら再生回数だけが増えていたフランク・オーシャン『Blonde』を再び頻繁に聴くようになった。

ある日、ランニング中に『Blonde』を聴いていて気になったのが〈Solo〉という曲だった。

オルガンのような音色の鍵盤の伴奏をバックに歌う曲で、演奏も含めてゴスペルっぽい雰囲気のR&Bだなと思っていたのだが、ふっとこの鍵盤のバッキングはゴスペルっぽいものにしてはなんか変だなと思うようになって、これはゴスペル的ではなくて、むしろギターで弾かれるようなものをオルガンの音色の鍵盤で弾いているものにも聴こえるようになった。それまではその音色でなんとなくゴスペルだと思っていたが、それ以来、そのメロディーも含めて、フォーク的なものが聴こえてくるようになった。とはいえ、ここには音色以外にもゴスペル的なそれも聴こえてくるのは間違いない。分離できない状態がフォーキーなものとゴスペル的なものが共存している気がした。そして、それは足し算も掛け算でもない。元からそういうゴスペルでもフォークでもない中間のような音楽が存在していたような曲でもある。それは、もしかしたらエリザベス・コットンのようにブルースという名前が付きながら、ほとんどフォークミュージックのような響きの音楽をやっていた人たちがいたようにある種の先祖返り的な部分もあるだろうが、フランク・オーシャンの音楽には、それとは違う新しさが明らかに響いている。

そういえば、フランク・オーシャンの楽曲をカヴァーしていたジャズ界隈のアーティストではベッカ・スティーブンスという人もいる。彼女は当初はどちらかというフォーキーなサウンドを作っていたシンガーで、自身もジャズも歌うし、自身が率いているのはバンドメンバーが全員ジャズミュージシャンによるバンドだ。そんな彼女が2014年にリリースした『Perfect Animal』では、フランク・オーシャンの〈Thinking About You〉をカヴァーしていた。

原曲は2012年リリースの『Channel Orange』に収録されている。その原曲やベッカによるカバー曲を聴いたときにいい曲だなとは思ったものの最初はよくわからなかった。当時、フランク・オーシャンの音楽がアンビエントR&Bとか呼ばれていて、インディーロック感覚のR&B的な扱いを受けていたとはいえ、いわゆる《黒さ》みたいなものをあまりにも感じなかったからだ。ただ、じゃ、これがインディーロックかと言われれば、そうでもない。そんなサウンドだった。それをベッカ・スティーブンスが歌うとフランク・オーシャンのバージョンとはテクスチャーやエモーションの機微が異なっているだけで、同じようにその中間にあるものになっていた。そのフィーリングは、ベッカ・スティーブンスが『Perfect Animal』『Regina』といった近作で書く曲とも通じるもので、作曲家としてのベッカの中にもその要素はあったものなのかもしれないとも思った。

そういえば、作曲家として、上記のフランク・オーシャンやベッカ・スティーブンス的なその間にある音を鮮やかかつさりげなく表現している人に、ジャズヴォーカリストのグレッチェン・パーラトがいる。彼女の曲も実に不思議だ。ブラジルのボサノバやMPBを取り上げたり、フォーク系の曲を取り上げたりすることもあり、フォーキーなイメージがあるが、ロバート・グラスパーがプロデュースをした『The Lost and Found』を聴けば、ソウルやジャズ経由のメロウな感覚を持っていることがわかる。しかし、彼女の曲もまた聴けば聴くほど、フォークでもジャズもソウルでもないのだ。もちろん、ブラジル音楽でもない。アコースティックのジャズフォーマットのピアノトリオをバックに歌う場合が多いが、彼女の音楽もまた間にある音楽だったと思う。僕は彼女らにインタビューする際に、彼女らの音楽をどういう言葉で例えながら質問をすればいいのか、いつもいつも悩んでいた。間の音ではあるのだが、それは何度も言うように足し算でも掛け算でもなく、元からそうだったものとしてそこに存在しているからだ。後天的に作られたものではなく、先天的にそうだった、かのようなものだからだ。

エリザベス・チャールズの音楽もまたベッカ・スティーブンスやグレッチェン・パーラトが持っていたものに通じるものがあり、フランク・オーシャンとも何かを共有しているのも知れないと思う。それは例えば、モーゼス・サムニーやキングの音楽にも通じるのかもしれないとも思うし、その先には、プリンスやスティービー・ワンダーがいるのではないかという気もする。それは楽器編成や使用機材、アレンジなどによる融合/折衷的なサウンドによるものではなく、もしかしたらメロディーそのもの(やせいぜいそのメロディーに寄り添うハーモニー)にあるのではないかとも思うようになった。一つ一つの音の連なりによる一本の線(旋律)にその特殊性や新しさが宿っているのかもしれない。

※新譜の動画が無かったから載せたこの曲はカヴァー。原曲はクランベリーズ

そんな《間の音》ということを考えていた時に、ふと浮かんだのが坂本龍一〈Merry Christmas Mr. Lawrence(戦場のメリークリスマス)〉だった。

この曲は長調と短調が入り混じっている不思議な曲なのだが、そんな違和感が全く聴こえてこないようなメランコリックでメロディアスでスムースな曲だ。最近、坂本さんに映画『CODA』について話を聞く機会( https://i-d.vice.com/jp/article/pa393y/ryuichi-sakamoto-coda-ryuichi-sakamoto-interview )があったから、それにかこつけて無理やりこの話をねじ込んでみた。彼はそれは自然に当たり前のこととしてやっているとは言いつつも、ドビュッシーショパンにもそんな調性があいまいな曲はいくつかあって、昔からそういう曲に惹かれていた自分がいたことを語ってくれた。

例えば、今、様々なアーティストがそのあいまいな表現を取り入れて、独特のフィーリングを表現している。坪口昌恭さんのレクチャーTZUBOLABOでロバート・グラスパーの話になったときに坪口さんが説明してくれたのはロバート・グラスパーのピアノはメジャーとマイナーを交互に行ったり来たりしながら弾いているから、あんな不思議な響きになるんだということだった。ロバート・グラスパーのピアノにははっきりとした感情やフィーリングではなくて、淡くて微妙な彼特有の情感があって、それがあることでシンプルな伴奏でさえも特別なものになる。
パンチ・ブラザーズの音楽を聴いた後に高橋健太郎さんが言っていた調性感の希薄さっていうのもそんな話に通じる気がする。先日、パンチブラザーズのクリス・エルドリッジがジャズ・ギタリストのジュリアン・ラージとのデュオでやったライブを観に行った。その時に、古いブルースやブルーグラスやカントリーの曲のカヴァーをいくつもやっていたのだが、クリス・エルドリッジのオリジナル曲は明らかに異質だった。複雑さや高度さ云々というよりも単純にメロディーラインが醸す雰囲気が全く違っていたのだった。それはパンチブラザーズの楽曲と同じ理由からだろう。

おそらく今、多くのアーティストたちが、これまでのような何かを融合させるような発想ではなく、新しいフィーリングを求めるために、限りなく最小単位に近いところまで戻って、ある意味では原理的なところの作り方を変えることで、新しい色、新しい単位みたいなものを作り出そうとしているのかもしれない。そんなことをロバート・グラスパーやパンチブラザーズだけでなく、ベッカ・スティーブンスやグレッチェン・パーラト、そしてサラ・エリザベス・チャールズにも感じている。もしかしたら、フランク・オーシャンという音楽家はそんなことを無意識的に生み出してしまっているソングライターなのかもしれないとも思ったりもする。

僕はフランク・オーシャンに関しては、近年のヒップホップやR&Bのトレンドよりも、そういったジャズのアーティストと近いものを肌感覚で感じていたんだけど、その理由はこれからも気になり続けるテーマな気がしている。

ちなみにそういう音楽へのヒントになりそうなのはジャズだとウェイン・ショーターハービー・ハンコックあたりになりそうだし、ジョビンミルトン・ナシメント(やワグネル・チゾ)あたりが参照点になるんだろうし、コンテンポラリーなジャズにはそういう要素はたくさんありそうだ。デューク・エリントンもそうかな。ただ、それがポップに聴こえるところにまで来ているものは限られそうな気はする。今、この感覚に近いところにいるジャズミュージシャンだったらアーロン・パークスなのかなとふと思ったり。アーロン・パークスのメロディーの魅力っていうのは僕が今、気になっていることだったりする。さらに言えば、崩さずアウトもせずにメロディーを素直に奏でる際の菊地雅章にもそんな雰囲気を感じる。

そういえば、フランク・オーシャンの『Blonde』でひとつ気になっていることがある。そこでカヴァーされているバート・バカラック作曲でカーペンターズのヒットで知られるの〈Close To You〉のことだ。『Blonde』の中でも特に印象的な楽曲だが、近年、この曲をとりあげる先進的なミュージシャンが何人かいて個人的にも気になっていた。例えば、ドラマーで作曲家のジョン・ホーレンベックが自身のラージアンサンブルを率いてやっている歌もののプロジェクトによるアルバム『Songs We Like A Lot』の中でカヴァーしていて、歌ではフォーキーなセンスのあるジャズシンガー、ケイト・マクギャリーが起用されていた。


また近年ネガティブハーモニーというセオリーを発表したことでも話題のジェイコブ・コリアーも彼がまだユーチューバーだったころにカヴァーしていて、今でもライブでは毎回のように演奏される定番曲になっている。フランク・オーシャンのバージョンや上記の2バージョンのどちらもとても素晴らしいものになっていて、この曲の不思議な魅力が活きていたこともあり、気になっていたのだった。

カーペンターズのバージョンを聴いていても感じるのだが、この曲は実に不思議な曲だ。訥々とした語り口になるようなメロディーは、その声の一音一音が強さではなく淡く曇ったような質感になり、そこに独特の情感が宿るが、そこに過度な感情を乗せようとしてもそれを拒否するようなメロディーでもあるような気がする。そのメロディーが持つ重力は、歌い手がエモーションを出そうと出そうとしても、それを無化して平坦にしてしまうようにも思える。ただ、その重力の中で丁寧に繊細に動くことができれば、この曲にしか表現しえない情感を深いところで形にすることができるのかもしれない。シンプルさが枷になり、その枷が情感や深みを生む。

ちなみにこの「Close To You」という曲は、もともと白人の男性俳優リチャード・チェンバレンのために書かれた曲で、その後、バカラックの曲をいくつもヒットさせている黒人女性歌手ディオンヌ・ワーウィックも歌っている。プロの歌手ではない(ので決して歌が上手いわけではない)クルーナー系の抑えた質感でささやくように歌う男性のために書かれたと考えれば、その一声一声に吐息が混じるようなメロディーなのも理解できる。ディオンヌ・ワーウィックは黒人の女性歌手だが、この時期は、いわゆる60-70年代的なソウルフルな歌唱とは一線を画す軽やかでスムースかつハイトーンを活かした歌唱をしていたシンガーだ。ソウルやファンクを聴き去っていた大学生のころにディオンヌのアルバムを買って、「全然ソウルじゃなくて、甘ったるいポップスじゃん…」と思った記憶がある。ディオンヌは〈Close To You〉でもいわゆるソウルやブルース的な歌唱を出すこともなく、透明感のある声で滑らかにその平坦さを活かしながら序盤はさらっと歌い、徐々にすべてをロングトーンで繋ぐような歌い方に変え、曲の重力の中でできる最大限の表現を試みていて非常に面白い。そして、カーペンターズのバージョンでは、カレン・カーペンターの憂いのある歌声がもつ情感がその平坦さの中で強烈に炙り出されているのと、曲の流れに完全に身を任せるように歌うカレンの自然な歌があまりに素晴らしい。ちなみに宇多田ヒカルもCubic U時代にこの曲を歌っていてこれも素晴らしい。

ふと思ったのは、この曲のメロディーが持つ重力は、僕が何となくイメージしているような黒人的なブルースっぽさ、ソウルっぽさや、白人的なカントリーっぽさやフォークっぽさみたいなものを無化してしまうのかもしれないことだ。例えば、ディオンヌ・ワーウィックも最も適切な歌唱を選んだだけ、とも言える気がするし、曲がディオンヌにその歌唱を選ばせたのかもしれないとも思う。そして、その非ジャンル的な分類からすり抜けるようなベクトルのことを《ポップス》と呼ぶのかもしれないとすれば、完璧なポップソングなのかもしれない。そんな〈Close To You〉の在り方は、(リチャード・チェンバレンが同性愛者であること以上に)フランク・オーシャンの音楽を紐解くヒントになるかもしれないとも思う。

さらに言えば、この曲はハル・デイヴィッドによる歌詞が絶妙で、シンプルなメロディーが持つ一音一音にそのまま一つ一つの言葉が乗っていて、それがリズム的になっていて、歌う際には音列や音域だけじゃなくてリズム的にも縛られている感じがある。一音節ごとにリズムがはめられていて、歌の中で言葉がひとつづつ切れているようなイメージさえある。たまたまいろんなバージョンを聴いていて思ったのが、カレン・カーペンターが歌おうと、細野晴臣(『Heavenly Music』とジム・オルークがプロデュースした『All Kind Of People』)が歌おうと、宇多田ヒカルが歌おうと、土岐麻子(『みちしたの音楽』)が歌おうと、ジェイコブ・コリアーが歌おうと、スティービー・ワンダーが歌おうと、フランク・オーシャンが歌おうと、そんなに大きな変化が出ない。メロディーやそれに紐づくリズムの構造上、歌の言葉尻にニュアンスを込めることくらいでしか変化の出しようがないからだ(逆に、その声質や言葉尻のニュアンスだけで違いを出せるくらいのシンガーでないと微妙なものになるということでもある)。という意味では、匿名性とまでは言わないまでも、歌の記名性みたいなものがかなり希薄になる曲ともいえる。ジャンルや音楽性みたいなものだけでなく、歌う主体者の存在さえも弱めてしまう実に不思議な曲だと思う。

ちなみにフランク・オーシャンは〈Close To You〉の歌のメロディーが持つリズム的な特性を活かして、言葉を一声一声切りながらもあくまでもラップではなくリズム的な歌としてシンプルなビートに乗せているのがあまりに見事だ。オートチューンでいじった声もフット言葉の切れ目を強調するようにサステインをスパっと消している。そもそもフランク・オーシャンの歌はビートのない曲でもいちいちリズム感が良くて気持ちいのだが、それはこの人は構造に対して意識的で、的確な位置に言葉を置いている人だからなんだろうなと思ったりもする。そして、そんな縛りの強い曲にこそ、オートチューンやハーモナイザーというテクノロジーが効果的だということを教えてくれるのもこの曲だ。楽曲の在り方に素直なままで、オートチューンで声を変調させることで過去のどんなバージョンよりもエモーショナルで悲痛な情感を表現しているのがフランク・オーシャンで、その歌唱力で微妙な変化を加えながら、ハーモナイザーでこれまでにない奥行きをもたらしてしまったジェイコブ・コリアー。この〈Close To You〉1曲だけでもフランク・オーシャンやジェイコブ・コリアーの二人の才能にひれ伏してしまった自分がいる。ちなみに真っ先にやったのはスティービー・ワンダーみたいで、トークボックスを使って歌うこの動画を見て、改めてスティービーの偉大さを思い知った。

そんな、一音一音の連なりが様々な重力や引力を持ち、ジャンルや人種のイメージなどを無化するようなシンプルなメロディーという意味では、ジェイコブ・コリアーのような音楽家が〈Close To You〉を歌うのもよくわかるし、サラ・エリザベス・チャールズやグレッチェン・パーラトのような作曲家が自身の歌唱の技巧を全く見せないようなシンプルかつ印象的なメロディーを書くことを紐解くためのヒントになるのかもしれない。そして、それはジェイコブや彼女たちのような超絶技巧を誇るボーカリストたちが限られた音域やシンプルな音列の中に自分が求める情感をどれだけ的確に歌という形でスムース且つ自然に入れることができるかというチャレンジでもあるのだろう。声量はないが、その一声一声や吐息、息を吸い込む音にさもニュアンスを付け、細やかな情感を込めることができるグレッチェンが求める音楽はそんなところにある気もする。

最後に。最近、僕はトラップを起点に近年増えているスッカスカのリズムもとても気になっている。例えば、トラップのビートに日本語のラップを乗せている音源を聴いていても、日本語ゆえの違和感みたいなものがあまりないのだ。英語と同じノリで聴ける。もしかしたら、トラップのあのリズムは、縦のリズムに合わせてかっちりと言葉を乗せる感じが、その言語特有の訛りとか言語固有のリズム感みたいなものを無効化して、どこの言語でも自然にラップできるようになるのかもしれない。つまりかなり汎用性の高いフォーマットなのかもしれないとも思う。英語でも日本語でもサウンドとして全く同じものとして聴ける感じがするのが面白いなと思っていたら、フランス語のものもたくさんあるとのことで少し聴いてみたら、確かにフランス語でも違和感があまりない。そう考えると、ラップにおける言語特性を超えさせちゃうリズムフォーマットであるからこそ、KOHHみたいな日本語で歌う人がいきなりフックアップされたりすることが起きるのかもしれない。リズム特性が日本語のラップを世界に届ける可能性の扉を勝手に開いた、みたいな部分もあるのだろうか。

そもそも言語固有の訛りと音楽には関係があって、ネオソウルというかJディラ的なよれたリズムとはやはり英語が合うんだと思う。そこでは言語特性は壁になる。おそらくトラップは僕らが安易にイメージしてしまうブラックミュージック的なものとそんなに結びつかないからというのもありそうだ。もしかしたら、ラテンっぽいのもかもしれないとも思う。

そういえば、ジャズトランぺッターのクリスチャン・スコット( http://www.billboard-japan.com/special/detail/2119 )はジャズの拡張をコンセプトにした作品をリリースしていて、その中でトラップのリズムをジャズに取り入れている。あくまでヒップホップでもネオソウルでもなく、トラップを選んだ理由には、ヒップホップ枠の音楽でありながら、USブラックミュージック的な縛りとは無縁で、人種や地域性みたいなものと切り離すことができるから、というのもある気がする。彼はアフリカン・アメリカンの血は入っているが、ネイティブアメリカンの血も入っていて、自身のアーデンティティとしてはどちらかというとネイティブアメリカン側にありそうな人だ。だから、彼は人種差別に反発する言葉を出しながらも、ブラックという言葉は使わない。そんな彼の音楽もまたジャズではあるが、ジャンルや人種では括りにくいものを敢えて作っているようにも感じる。それは彼なりの間の音、もしくは、総てを内包した音であり、そのために必要だったのが、トラップという言語特性を無効化してしまうユニバーサルなリズムだったのかもしれない。

そもそもジャズという音楽は最初からヨーロッパやアフリカやカリブ海などの要素が入り混じった混ざりものだった。そんなジャズはどんどん洗練されていって、いつのまにかジャンルの新しい最小単位のようになって、世界中に広まって、世界中でその土地の音楽と混ざり、新しいジャンルを生み出している。彼は今、自分なりのやり方でもう一度ジャズを成り立ちのプロセスから立ち上げ直して、もう一度新しい最小単位を生み出すための実験をしているようにも思える。

以前、プリザヴェーション・ホール・ジャズ・バンドの長老チャーリー・ガブリエルにインタビューした際に、「その昔、ハバネラというリズムが世界中に広まり、様々な音楽を生み出した。キューバにわたりボレロを生み、アメリカではジャズを生んだ。」というような話をしてくれた( http://www.billboard-japan.com/special/detail/2033 )。ハバネラは当時のユニバーサルなリズムで、それが起点となり世界中で新しい音楽が生まれるための種みたいなものになった。もしかしたら、トラップもハバネラのようなものになる可能性を秘めているかもしれない、なんて考えるのは夢想が過ぎるだろうか。

今思えば、ジャンルや地域性、人種などを感じさせないチャールス・ロイドもまた出自にネイティブアメリカンがあるし、サラ・エリザベス・チャールズもハイチの血が混じっているという。コスモポリタンというか、ワールド・シティズンというか、彼らのそんな意識が反映された結果、生まれた音楽なのかもしれないとも思えてくる。そう考えると、サラ・エリザベス・チャールズとクリスチャン・スコットが組むことは必然なのかなと。出会うべくして、出会ったコラボレーションなのかもしれない。

とりとめもなく書いてきたが、様々な間にある音や、ジャンルや地域性や人種みたいなものを無効にする音みたいなものが求められたり、生まれたりしているような気がしているというようなことを僕はぼんやりと思っていて、フランク・オーシャンはその申し子のような人なんじゃないかなと思ったりもしているけど、どうなんだろうか。

僕は仕事に追われながらも、そんなことを考えつつ、ここ一か月を過ごしていたのだった。ちゃんと仕事しよう。

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