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V.A. - Radiohead in Jazz:Disc Review without Preparation

V.A.『レディオヘッド・イン・ジャズ』

ヨーロッパの(ジェイミー・カラムやヤロン・ヘルマンなどの一部を除き、多くはほぼ無名の)若手たちによるレディオヘッドのカバー集。

ピアノトリオから、ホーン入りから、アコースティックく、エレクトリック、ビッグバンド、ヴォーカルものなどなど、様々なスタイルではあるが、当たり前のように自然にジャズとして演奏されていて、それらを聴いていると、レディオヘッドに思い入れがあるから取り上げる云々の時期は終わって、誰もが演奏する曲=スタンダードになったんだなと思える。

つまり、80-90年代のジャズミュージシャンたちが60年代の音楽であるビートルズを取り上げていたのと同じことで、特にレディオヘッドだからどうという感じでもなく、2010年代のジャズミュージシャンが90-00年代のレディオヘッドを過去の名曲の一つって感じで演奏しているようでもあり。

レディオヘッドからの影響を先駆的に消化していたブラッド・メルドーやE.S.T.の孫引き感がそこまでないのも面白く、つまりスタンダードになるってことは曲やメロディの「骨組み」だけが残る、と言うことなのかもしれない、とも思ったりもした。

少し前からレディオヘッドの曲を取り上げてる人は急速に増えた印象があるけど、ブラッド・メルドーや、それ以降に強いインパクトを残したロバート・グラスパー、もしくはE.S.T.系譜でコリン・ヴァロンやゴーゴーペンギンなどがレディオヘッドの影響を語っていたような例外を除いては、レディオヘッドをジャズメンが取り上げることには、もはやあまり音楽的な意味を見出せなくなるかもしれない予感がしてたんだけど、このコンピレーションでそれを確信したかもしれない。

それだけレディオヘッドが浸透した、と言うことであり、繰り返すが、「レディオヘッドを取り上げる」と言うことではなくて、「スタンダードを演奏する」みたいな意識に変わったというこで、それは「All things you are」とか「Autumn Leaves」みたいなものになったということか。

そう考えると、レディオヘッドと同じことはおそらくJディラやディアンジェロにも言えるかもしれない、との見立てもたつのではないだろうか。

2017年に「>>>レディオヘッドはジャズではない――彼らが同時代のジャズ作家に与えた多大な影響からジャズ評論家、柳樂光隆が検証する」という記事を書いたけど「レディオヘッドをカバーすることに意味を見出す」って話だと、語る意味があるギリギリのタイミングだったのかもしれないですね。

例えば、「レディオヘッドと現代ジャズの蜜月 レディオヘッドはもはや現代ジャズのスタンダードなのだ」という記事で書いたようなレディオヘッドの曲がもっていた独特の情感を奏でるとか、レディオヘッドがテクノやトリップホップなどに影響を受けてポストプロダクションを駆使して作っていた音響部分に挑むとか、そういう対象ではなくなってもっと単純な意味での「曲」が残ったということなのかもしれない。ジャズミュージシャンがレディオヘッドをカヴァーすることめぐる経緯は、ジャズにおける「スタンダードとは何か」みたいな話を探る意味でもとても面白い題材かもしれない。

とはいえ、ピアニストがレディオヘッドを演奏するとなんだかんだで思いっきりブラッド・メルドーがやっていたやり口が見えるのでメルドーの影響がかなり強いことは間違いない。ただ、メルドーが表現しようとしてたものとは別物になっているので、その残っているものと失われたもの、もしくは新たに加わったもの、みたいなところにフォーカスするのも、ジャズミュージシャンによるレディオヘッドを楽しむための聴き方のひとつなのかもしれない。
(2019/05/05)

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