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Film Review:映画『COLD WAR あの歌、2つの心』の音楽のこと(ネタバレあり

上記のotocotoに映画評を音楽の面から書きました。

ここではその記事の続きとして、書き切れなかったことを思いっきりネタバレな感じでいくつか書いています。

この映画では冒頭でヴィクトルがポーランドの地方を回ってフォークソングを録音し採集したりしているところから始まり、その後、彼はポーランドの民族合唱舞踏団で音楽監督になります。そして、その舞踏団でフォークソングを歌う魅力的な女性ズーラに出会い、恋に落ち、物語が動き始めます。

ポーランドに伝わるフォークソングを愛するピアニストとシンガーがポーランド音楽をきっかけに出会った瞬間が美しく描かれ、同時に冒頭からポーランドの音楽が魅力的に描かれますが、おそらくこの映画では主役の2人のポーランド音楽への思いや、2人とポーランド音楽との距離みたいなものが物語において、なんらかのメタファー的に使われている気がしました。それについて僕が感じたものをここから書いていこうと思います。

当初はポーランド各地のフォークソングをやっていた舞踏団が、ソ連の支配下に置かれたポーランド政府の意向を汲んで、社会主義的なプロパガンダに利用され、ソ連の歌を歌わされるようになっていきます。そこではヴィクトルもズーラもポーランドの歌を歌いたいというポーランドへの愛がより強くなっていきます。そして、2人の愛もより深まっていきます。

そして、それに嫌気がさし、ジャズを愛していたヴィクトルはフランスへと亡命します。フランスで西側の自由の音楽としてのジャズを演奏しているうちに、徐々にフランスに染まっていき、ポーランドのこともズーラのことも忘れていきます。二人が完全に離れているその間、ヴィクトルがポーランドの音楽を奏でることはありません。

しかし、ズーラとの再会後、2人は再び愛し合うことになります。そこからはまたポーランドの音楽が流れ始め、劇中で二人はポーランドのフォークソングの「2つの心」を2度歌うことになります。

この「2つの心」はポーランド語の原曲「Dwa Serduzka」、フランス語による歌詞の直訳「Deux Coeurs」の2パターンがあり、言葉が変わり、その曲の中からポーランドの要素が薄れていくと、2人の心は離れ、ヴィクトルは自身を見失っていきます。

そして、ズーラのフランス・デビュー作として製作される「Loin de toi」は、ヴィクトルが曲を書き、ヴィクトルの愛人で、彼の生活を支援するパトロンでもあるフランス人の詩人が全く歌詞をつけたいかにもなフランスっぽいジャズで、ポーランドらしさは微塵もなくズーラは不満をあらわにします。「Loin de toi」と、そのレコードは「形だけの愛、中身のない愛」のメタファーのようなものとして響きます。

ポーランドの音楽への思いやその扱い方は2人の関係、相手への思いなどとそのまま繋がっているかのように描かれます。

終盤、ズーラが刑務所に入れられてしまったヴィクトルを救うために全く愛情のない権力者と結婚して子供を産んでいることがわかる2人の再会シーンがあります。そこは大きなコンサートの会場で、(どうやらポーランドではスターになったと思われる)ズーラは本人が全く望んでないであろう派手なメイクと衣装、そして、派手なアレンジを施された品のないラテン音楽みたいな楽曲、つまり彼女が愛するポーランドの歌とは全く別の音楽を、大きな会場で、大観衆の前で下品で雑な振り付けとともに歌っています。夫はそのステージを誇らしげに見ていて、釈放されたヴィクトルに挨拶した後、彼に対して「Loin de toi」のレコードを絶賛します。ここで「Loin de toi」はズーラと夫が全く心が通わせていないことのメタファーとしても使われています。

物語の前半部でポーランドの舞踏団に政府の役人が来て、舞踏団にソ連のプロパガンダの歌を歌うように指示しに来るシーンがあります。最終的に従わざるを得なくなるわけですが、舞踏団の代表が「彼女らはポーランドの田舎の歌しか歌おうとしない」というようなことを言って、断ろうとします。あのセリフもまたズーラがその後、「Loin de toi」も含めたポーランドのフォークソング以外を歌う際の心情を示すための複線みたいなセリフだったのかもしれません。

そういえば、ズーラが荒れていた泥酔して踊りまくっていたシーンで流れていたのは、ロックンロールの「Rock Around The Clock」でした。この映画では彼女にとってポーランドの音楽以外は「不本意な感情」を示しているとさえ言えるのかもしれません。

もうひとつ書いてみたいのが、ズーラの音楽に対する美意識のことです。この映画では彼女のヴィクトルへの愛情だけでなく、彼女の音楽へのこだわりと愛が丁寧に描かれていると思いました。

ヴィクトルが亡命する際に、ズーラはついていかず、そのままポーランドに残り、楽団で歌い続けました。あとあと、再会した時に理由を聞かれた彼女は「自分があらゆる意味でまだ未熟だったから」と答えます。

再会した時点で、彼女はポーランドで自分を磨き、素晴らしいシンガーになっていることは、フランスの観客たちをその歌声で魅了しているシーンが示しています。そして、彼女は自分の表現に対して、美しさをストイックに求めるアーティストになっていました。彼女が「Loin de toi」の歌詞を見せられた時に、最初に言ったのはその歌詞のクオリティのことであり、その言葉と音楽の、つまりその言葉と歌唱の関係性のことでした。その詞に対して「Rが多すぎる」と彼女は指摘していますが、歌のことを全く考慮していない、つまり言葉の響きの美しさやリズム感に対する音楽的なデザインがなされていないことに彼女は不満を感じています。つまり、ここでは表面的にはヴィクトルと愛人の関係性へのズーラの嫉妬とも見えますが、それだけでなく、むしろ、歌詞の音楽的なレベルの低さと、それを採用してしまうヴィクトルの音楽家としての質の低下への不満を抱えていることを感じさせます。歌詞のディテールへの執拗なこだわりから思い出されるのは、楽団への入団直後のダンスレッスンでの頭の位置や腕の角度などを徹底的に揃えることで生まれる美しさを学んでいたことです。シンガーとして実力を高めてきた彼女にとって「美は細部に宿る」ものだと考えている気がしました。

そして、その歌詞のクオリティは歌にも影響を及ぼしてしまっていて、「Loin de toi」では、「Dwa Serduzka」のようなリズム感や響きの美しさは全く出ていません。そして、それにヴィクトルが施したアレンジや、ヴィクトルが奏でるピアノも同様で「Dwa Serduzka」とは程遠いもの、つまり「Loin de toi」の歌詞のようにのっぺりとした平坦で魅力の欠片もない演奏が聴こえてきます。ズーラはそもそも楽団のオーディションの時にも、初対面のシンガーの歌に完璧なコーラスをつけてハモり、そのコーラスだけでヴィクトルを含む審査員を魅了することができるシンガーでもありました。彼女はもともとそのメロディーに対して、どんな響きがふさわしいのかを知っているシンガーでもあったわけです。そんな彼女にとって美しく響いていない「Loin de toi」が許せなかったのは当然だったのではないでしょうか。

パーティーの場で愛人がズーラに自身の歌詞におけるズーラへの当てつけのような表現の品の無さや平凡な比喩の解説を嫌味っぽくかつ誇らしげに語るシーンはヴィクトルが身を置いていたシーンの芸術的なレベルのメタファーのようにも感じました。ズーラがヴィクトルに告げずにポーランドへ帰ったことは、ヴィクトルだけでなく、彼女が求めるようなレベルに無いフランスの音楽シーンへの失望から、彼女が求める美しさがある場所へ行こうとした、という意味でもあるのでしょうか。ここでもポーランドは「美しさ」や「ズーラが大切にしているもの」を示しているような気がしました。

しかし、その後、権力者との結婚後、釈放されたヴィクトルとの再会シーンでズーラが歌っていた音楽を聴けば、もはやポーランドには、もしくは彼女が暮らしている場所には、彼女が求めるような美しさをもつポーランド的な音楽が失われてしまったこと、そして、彼女はその美しくない歌を望まないまま歌わされていることがわかります。

そこで彼女がヴィクトルに「ここから連れ出して」というようなことを言ったのは、望まない結婚やヴィクトルの立場だけではなく、彼女が求める本当に美しいものを表現できない世界からの逃亡、つまりアーティストとしての絶望も含まれていたようなが気がします。

そんな彼女が思い描いていた理想は、ヴィクトルと出会ってすぐのころ、つまりソ連がポーランドを変えてしまう前の、美しいポーランドのフォークソングを、ポーランドの音楽を愛する才能溢れる音楽家のものとで歌うこと、だったのかもしれません。恋に落ちる男女が出会った頃のあの時間というのが、2人が最も美しい音楽を奏でていた時間と重なっていて、そのどちらもがポーランドの政治的な事情や、それぞれの変化により、少しづつパラレルに失われて行く儚さはもこの映画の何とも言えない魅力の理由なのかもしれません。

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