見出し画像

サイコパスの人の特徴は?

 サイコパス・インサイドを読み終え、中野信子さんの「サイコパス」もほとんど読み終えているので、印象が薄れないうちに自分がこの二冊から得た「サイコパス」という括りに入る人間像を書き留めておきたいと思います。
 本題に入る前に確認しておきたいのは、私は決してサイコパスの存在自体を全否定するわけではありません。この二人の著者も言っていますが、このサイコパスという人を食い物にする有害な人間である部分が大きい種類の人間が生き残ってきたのはそれなりに人類が繁栄するのに貢献した部分もあるからのようで、こういうタイプの人も人類の多様性の一部として認める必要はあるのだと思います。
 ただし凶悪な殺人を犯すような人、詐欺で人を食い物にする人、よその国に侵攻して戦争という形で大殺戮をする人を許すわけにはいきません。
 そして、少なくとも一見魅力的に映るサイコパスの餌食に自分がならないためにも、サイコパスかそうでないかを見分ける目は持っていて損はないと思うのです。
 そういう意味でここにサイコパスの特徴を私なりにまとめてみたいと思いました。
 サイコパス、というのはそもそもが犯罪者の中でも特に残忍だったり悪質な罪を重ねているにもかかわらず、全く罪の意識を感じていない、という人たちがいて、そういう人に類型が見られたことからカテゴリーが作られた、という経緯があります。
 なので精神医学用語ではサイコパスという分類はなく近いのが反社会的パーソナリティー障害だということです。
 つまりまだ曖昧な部分も大きいのだろうと思われますが、専門的なことはわからない一般人の目からすると、この二冊を読んで理解したのは次のことです。
 サイコパスの人はそれ以外の人と比べると情動を司るところの脳が不活性だということ。
 サイコパスは共感性がないと言われていますが、頭で認知する冷たい共感性、英語でsympathy(シンパシー)と呼ばれるものはあるのです。でも心で感じる熱い共感empathy(エンパシー)がないのだということです。
 サイコパスは犯罪者だけでなくカリスマ性を持った政治家や宗教家、タレント、成功した実業家や起業家にも多いと言われています。
 本の中には、え?この人も?という人が色々挙げられていますが、私が一番最初に思い浮かべたのはオウム真理教の麻原彰晃です。
 彼も逮捕された当初には彼はそんな人ではないと擁護した文化人が何人もいたようです。
 サイコパスは口がうまく自分の利益のために人を丸め込む術に長けているそうで、当然詐欺師やスパイにも多いとのことです。麻原彰晃も純粋な仏教徒を演じていたのでしょう。
 カリスマ性のある人の中にサイコパスが多いからと言ってもいうまでもないことですがカリスマ性のある人の全てがサイコパスなわけではありません。
 結局その熱い共感性、日本的にいうなら人情の厚いような人はサイコパスではあり得ないでしょう。ただし、サイコパスは自分の利益のために全力を傾ける傾向があるために、どういう時にどうすれば人に同情している「ふり」ができるか?を学習して演技している場合もあるので、その辺は注意が必要です。
 情動の活動が低いということと関係してるのか、心身ともに痛みに強いという特徴もあります。
 だから罰に対して反応が低く、報酬に対して高い反応を示すそうです。そのバリエーションとして危険なことにも強い傾向があるそうです。大胆不敵、むしろ怖いことや危険なことが大好きな人も多いとのこと。
 悪いことをして罰を与えられても対して気にせず、利益をうることには夢中になる傾向があるということです。
 だからこそ戦乱の時代には勇気ある英雄としてむしろ讃えられることも多かったことが考えられる、ということです。
 私自身は痛みに対する感受性は人一倍強いし、ジェットコースターのような怖い乗り物は子供の時一度乗ったのと一回大したことないと騙されて乗って懲りたきり、二度と乗っていません。
 エンパシーは強すぎる方で、人が悩んでいると自分ごとのように一緒に悩んでしまいます。
 つまり、正反対と言っていいくらいなのですが、これは自慢をしているわけではなく事実としてです。というか正反対ということはそれも過ぎたるは及ばざるが如し、ということでいいこととも限りません。
 サイコパスの痛みに強い、危険なことが好き、エンパシーがない、自分の利益を優先させることにためらいがありすぎる、という特徴については正反対だということです。
 人間はとにかく多様ですから、こういう特徴を持った典型の人がいるとは言っても、実際は全てスペクトラム、一番右から一番左までがデジタルではなくアナログで繋がっていて、言ってみれば程度の差ということもあるわけです。
 誰でも自分は可愛いし、人の気持ちがわかると言ってもいざとなったら人よりも自分の利益を優先させたい、自分を守りたいと思うのも自然の法則に含まれる範囲です。
 ただ、人を助けて自分が代わりに命を落としてしまったという人もいます。サイコパスが一番左だとしたらこういう人は一番右にくる人で、その間のどこかに自分はいる、というところなのでしょう。
  私はおそらくはこのサイコパスを一番左とするスペクトラムの中ではけっこう右の方になるのだと思います。自分の命を捨ててまで人を助けるまではいかないので右のどこかくらいですが。
 でもそれはサイコパスの上にあげた特徴についてだけのことで、もしかしたら他の切り口でのスペクトラムではサイコパスの人たちと同じところに位置するかもしれない、とも思います。
 人間はとても複雑にできていて簡単に切り分けられるものではないようです。
 サイコパス・インサイドの著者ジェームス・ファロンはサイコパスになるかは①脳の機能②遺伝的要因③環境要因によって決まると言っています。
 サイコパスに限らず、生まれながら持っている身体の条件と遺伝子と育った環境が私たちの人格や人間性を作っているということでしょう。
 まあ、どんな形に生まれて、どんな祖先を持っていて、どんな風に育てられたとしても、今ある自分はもし今自分が大人ならその自分の行動に責任を持てるのはやっぱり自分だけだと思うのです。
 こんな形に生んだのは誰だ?どうしてそんな祖先が自分にいるんだ?なんでこんなふうに育てたんだ?と仮に文句を言ったところで、何も変わらないし誰も助けてはくれない。 
 仮に自分がサイコパスだと分かったとしても、それを自覚したなら、人を傷つけるような行為をしないように行動を気をつけることもできるでしょう。実際著者ジェームス・ファロンは自分のサイコパスを自覚してからは行動を改めているようです。
 自分の周りにサイコパスと思われる人がいたなら、ある程度の距離を保って、その人から不当に利用されないように注意することもできるでしょう。
 私のこの二冊の本を読んでの結論は、サイコパスという特異な人がいることを、そしてその特徴を頭に入れておくこと、そして、自分のことも案外自分でわかっているようでわかっていないことを知っておくこと、の二点です。
 もう一つ、人への熱い共感も自分を優先させることに対する罪悪感も、これまた少し極端な可能性もあることも自覚したい、と思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?