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自分を赦したら嫌いな人が消えていった

私はこの10年あまり、自分を変えようと思ってきたけれど、その中でも特に自分を赦すというのは大きなテーマだった。
そうした中少し前に、自分の全てを肯定してみる100日というのを自分で設定してみたこともある。これもずいぶんと効果があったみたいで、自分で自分が嫌だなと思うことを受け入れて赦す習慣が強化された気がしている。

そしてそのことで自分が変わった、と思える「証拠」を見つけたのだ。

私の若い頃からデビューしていまだに人気を誇るあるシンガーが基本あまり好きではなかった。

それが、最近になって、その嫌っていた気持ち、というのがどこかに消えてしまったことに気がついたのだ。

嫌いだったのが好きになった、とか、そう言うのではなくて、なんで今までそんなに嫌っていたんだろう?と不思議に思う感じ。
特に何かきっかけになることがあったわけでもなく。

まあ人を嫌いになるのは自己投影には間違い無いのだ。

自分の嫌いなところがその人の中にある。だから嫌なのだ。

人はなぜ自分のある部分を嫌うのだろう?

そうすることが自分に有利に働くと思うからか。

おそらくは子供時代に主に親など近親者に受け入れてもらえず、それが心の傷になっていて、自分が受け入れてもらえなかったところを自分でも受け入れないことで、それは自分ではない、と嫌うことで抑圧の部屋に閉じ込める。

でも確実にそれは自分の一部なのであって、いくら抑圧していてもその存在を潜在意識は知っている。

だから他人の中に自分が嫌って抑圧した部分を見ると嫌悪を感じる、というのが理屈かなと思う。

実際、どんな自分も許していこう!キャンペーンを自分でやっていると、本当に人に腹を立てたり、人の嫌な部分が目や鼻についたり、がすごく減るのが面白い。

ということは、人の悪口ばかり言っている人は結局自分自身に許していないところがたくさんある人なんだと思う。


人間は自分が優れていると思いたいところと、うまくいかなかった時の保険のために、大した人間ではない、と思いたいところの両方を持っているのだと思う。


これはどちらも生き残り戦略が大元なのだろう。


自分を大事に思えなかったら簡単に命を落としてしまうし、傲慢になれば社会の中で生きていけない。


でも結局自分はすごいかもしれない、と、自分は全くダメな人間だ、の両方の極を行ったり来たり振り子のように触れるのが人間なのだろう。


たまに自分はすごいすごいとばかり言っている人がいたり、自分はダメだダメだとばかり言っている人もいるけれど、それはあくまで表面に出ている部分で、実際は反対側も十分どこかに隠し持っているのだと思う。抑圧していて自分では意識できていないかもしれなくても。


でも、結局のところ高い視点から見たら、みんなどんぐりの背比べ、所詮お釈迦様の手のひらから出ることができないのは同じなのだ。


ただ、自然に従う以外許されていないその他の動物と違って、人間は生き方を選ぶことができる。


自分の嫌いなところを嫌いなまま、闇の中に葬って、人の粗探しをしてはあの人は嫌い、この人も嫌い、と言う人生も選べるし、自分の嫌いなところもこれも自分なんだな、と受け入れ愛おしむ生き方を選ぶこともできる。


どちらにするのかはその人の自由だ。


そもそも人を嫌っているのは自分を嫌っていることの投影だ、という話を信じない人もいるだろう。
そこも否定されてしまえばこの話自体受け入れられないに違いない。

それもその人の選択だろう。


でも、自分の周りに嫌な人がほとんどいない、という生活くらい安楽なものはないものだ。


私自身10年前を振り返れば、その時は抵抗の多い人にもずいぶん出会っていた。実際に軋轢もよくあった。

それが今では周りを見回して、この人と会うのが憂鬱だと思うような人との関わりがほとんどない。当然争い事もない。

良いことがたくさんあるのも良いけれど、嫌なことがほとんどない、というのもとても幸せなことだ。

世界の平和は自分の平和から、というのは間違いがないことだと思う。

自分の心が平和な人は人に対して嫌なことを言ったりしたり決してしないものだから。

みんながまず自分の嫌なところを許す、というキャンペーンを始めたらどれだけこの世界は平和になるかわからない。

これからの人類が目指すべきところはそこなんじゃないか、と本気で私は思っている。





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