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カメラを止めるな、を応援したくなるのはなぜか

大評判の本作、前評判を既に聞いていたので、「よっぽどメタですごい練った話なんだろうな……」と漠然と思っていたのですが、いい意味で力の抜けた、とにかくハッピーな気分になれる映画でした。

今更ですが、ブームと言えるほどの大人気です。
なぜなのかな、と考えると単に出来がいいから以上に、とにかく「応援したくなる」仕組みの映画だからではないかと感じました。

※以下完全にネタバレです。一度本編をご覧になってからお読み下さい※

不利を逆手にとった構造

そもそも、マイナーな新人監督の映画を積極的に見る、という映画ファンは多くはないと思います。
マイナーでも面白い作品はあるだろうと思うのですが、「演技の拙さ」「美術の拙さ」などがネックになってなかなか手が出ません。こういった点が拙いと、なかなか見通すこと自体が辛いものです。

この映画も、演技がすごく上手か、美術が素晴らしいか、というとそうではないです。

ただ、後半でネタが明かされる前にも、前半が「『映画を撮影していたところにゾンビが襲ってくる映像作品』を撮っている人たちの映像」だ、ということは観客に伝わってくる構造になっています。(監督が随所に顔を出したり)

だから、いくら映画的に拙い面があっても「そういうものなんだろうな」と思って見れる。いくつか、このパートを見るのが苦痛だったという意見も見かけましたが、だからといって席を立ったり見るのをやめる人はいなかったと思います。

このパートは拙い。そして拙いことを隠さず、「映像を撮っている人たちの映像だ」と知らせることで、それを観客に受け入れさせている。そうして前半を見させてしまえば、自然と後半の仕掛けに巻き込んでいくことができます。

単純に、もっと演技力を上げよう、美術を作り込もうとしていうことも可能ですが、どうしたって限界はあります。その限界を逆手に取った上手な構造だと思いました。

映画を応援したくなる映画(本題)

ただ、上記のような、不十分な点を自覚した映画なら他にもあります。

ならば、なぜこの映画がここまで人気を得ているかというと、とにかくこの映画自体を応援したくなる映画だからだ、と思いました。

本作は前半から後半に移るにつれて、完成品→制作と課程を遡ります。

後半パートではあまり冴えない監督の日常が描かれ、トラブルが多数あることが示されます。
ですが、観客は前半で既に完成品を見ているので、一応はカメラを止めることなく映画が放映されたことを知っている。
つまり、ハッピーエンドであることは最初からわかっているのです。だから安心して、起きる喜劇を眺めていられる。

これがもし構造が逆で、最初に生中継映像であることを知らされて、後半に入るのだとしたら、よりはらはらするサスペンスはできても、登場人物たちにもっとイライラさせられていたと思います。それでは、気持ちよく応援をする気持ちになれない。

結果的に、映像は最後まで繋がっていた。
あの人もあの人も、問題児だったけれど何とかうまくいった。
そのことがわかっているから、登場人物の誰もを嫌いになることがないのです。

様々なトラブルに襲われる現場に居合わせることで、観客にはこの映画制作を、制作者たちと一緒になって応援したい気持ちが生まれる。

そして、作品中の「監督」の映画制作を応援する気持ちと、本作という映画自体を応援したいという気持ちが、自然と繋がるのです。
だからこそ、見終わったあとに「良かったね」と言いたくなるようなハッピーな気持ちになれる。
そういう、気持ちよく映画制作者たちに感情移入できる構造になっていることが、見た後の満足感の高さになり、この映画を応援したいという動きに繋がっているのではないかと感じました。

本当は、作中の「監督」は俳優であり、後半の映画撮影もフィクションです。でも、前半を「フィクション」後半を「ノンフィクション」と大胆に線引きすることで、後半のフィクション感は薄れ、それこそ演技や美術が拙いかどうかなどまったく気にならなくなります。

だから、とにかく見終わったあとの気持ちはハッピーです。
誰も傷つかず、嫌な気持ちにはならず、「映画っていいな」と思いながら劇場を出られる。
素晴らしい映画はたくさんあっても、単純にそういう気持ちを得られる映画はそう多くはないと思います。
非常に様々なピースが上手くはまった、幸せな映画の鑑賞体験でした。

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