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彼女という図書館

前回のnoteを書いた後に、森博嗣氏の日記にまさに、インプットとアウトプットについて書かれていました。

なにかをインプットしたときの反応を、自分のアウトプットだと勘違いしたままだと、オリジナルを出す方法がわからなくなります。考えようとした途端に学びたくなる、調べたくなる、というように、ついインプットを求めてしまうようになることが多い。わからないことがあった場合に、まず考える。自分の解釈、自分の評価、自分の連想をまず求めること。

まさに、アウトプットのためにインプットがどれくらい必要か、と考えてしまう発想自体を指摘されたようでどきりとしました。

20冊を仮に読んだとしたら、確かに何らかの「反応」は湧いてくると思います。こういうものを自分も書きたいとか、ここのこういうところが違ってたらいいのに、とか。

それはそのまま書き出すエネルギーにも材料にもなる。
でも、それはきっと剽窃でこそなくてもインスパイア元が丸わかりの薄いものになってしまう。

そういう意味ではやっぱり20冊読めば1冊書ける、という単純な計算は誤りだとも言えます。

なにもないところ、ゼロから生まれるものを拾わないと新しい価値が生まれにくい。

でも、森博嗣作品に出てくるような天才でもない限り、ゼロから何かを着想することは限りなく難しい。

そこにはやっぱり、先人の知恵や発想元が、多かれ少なかれ種として必要になります。

ただ、もちろんそれをそのまま右から左に移すようなことはしない。

沈殿させ、発酵させ、他の事柄と化学変化を起こさせること。

そのために必要になるのが、前回の記事でも書いた「本棚」だと思うのです。そしてそれが、その人の個性にもなる。

ここでいう本棚は物理本棚に限らない、抽象的なものです。

前回noteの中で書いた、私が坂元裕二さんの本棚に見つけた「ずっと前から大事に思っている一冊」は二階堂奥歯さんの『八本脚の蝶』です。

あなたという図書館を焚かれると、利用者としては困る。再建できないし。

本書の中には、雪雪さんという人の手紙の文章として、奥歯さんを「図書館」にたとえる文章が出てきます。彼女は元編集者で、非常な読書家でした。

彼女はもういませんが、彼女の本は私の本棚にあります。坂元さんの本棚にも。

そしてその本の中に、彼女が残した巨大な本棚の痕跡を、今でも見て取ることができます。

本棚の中に本があり、本の中にまた本棚がある。

無限に続くバベルの図書館の一角に私の小さな図書室もまたあることを思いながら、今日も本を読み、小説を書いています。

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