困惑!社会規範探求記

ここ最近書いていることはここに書いてあることから始まっている。本当はもっとまとまった形にしたかったけど、あまりうまくまとめられなかったので困惑をそのままに公開してみる。


最近、僕はこれまでの自分の価値観を解体している。

僕の価値観の中心にあるもの、それは社会的なステータスだ。僕はさまざまなことを社会的なステータスを中心に考えてしまう。
その悪癖はその人が何人兄弟かといったことにまで及ぶ。
どういうことかというと、僕はその人が例えば三人兄弟だとしたら、出生率の向上に寄与してるなと一番最初に思ってしまう。三人兄弟だからこその思い出や感覚、立ち位置への苦悩や世話をされつつ世話をする楽しさなど、そういった話よりも前に、つまり個人的な感覚の前に、社会的なことを考えてしまう。

僕はずっと社会的な視線で物事を認知しながら、何が得で何が損かをとても執拗に嗅ごうとしてきた。けれど、嗅いだ結果、行動には移せなかった。
それがずっと僕の人生の停滞を作り出すものだった。
社会に迎合するのなら迎合し切ればよかったのに、それができなかった。そして社会と距離をとるなら社会と距離を取ればよかったのに、それができなかった。
とても社会的な視線やステータスに敏感なのに、その社会的な視線やステータスに則った行動をとることはできなかったのだ。

では社会的な視線やステータスに敏感で、かつ行動に移せた人たちとはどんな人か。
それは港区女子や六本木西麻布でアホみたいな飲み会をする社長や戦略コンサルで働く高学歴たちなんだろうと思う。彼らはステータスに身を煽られ、猪突猛進する。

そして僕はそんな人として『桐島、部活やめるってよ』の菊池宏樹を思い出す。
あのキャラはずっと空っぽなのだ。なぜかというと社会的な視線に行動原理を完全に乗っ取られてしまっているからだ。
彼は社会的な視線を背負ってしまっているキャラだ。
だからダサくて汗臭い野球部から離れ、クラスの一軍たちとつるむ。しかも勉強だってする。イケてて、頭が良くて、運動ができる。そんな絵に描いたようなスーパーステータスマンになるために彼は彼の人生を転がす。(彼がそれをできてしまう人間であるからこそ、そのループから抜け出せない)
そんな彼が映画の最終盤、映画部の前田と話す。
前田は映画部がどう扱われているか、自分が学校のヒエラルキーの中でどう捉えられているかを確実に理解している。
けれど、彼は映画を撮り続ける。映画の話を友達とし続ける。
それがどれだけステータスゲーム的にダサくとも、ヒエラルキーで上位になれるような趣味じゃないとしても、彼は映画を愛し続ける。彼のそんな思いが詰まった言葉を聞いた時、宏樹は涙を流す。

前田「映画監督は、無理」
宏樹「じゃあ、なんで、こんな汚いカメラでわざわざ映画・・・」
前田「それは、うーん。でも時々ね。俺たちが好きな映画と、今自分たちが撮ってる映画がつながってるんだなって思う時があって。ホントにたまになんだよ。たまになんだけど。いや、それがなんか・・・」

映画監督にならないと意味がない、汚いカメラでわざわざ映画を撮るなんて理解できない、そんな宏樹の考えが染み出すセリフだ。社会的な評価が得られないし、なんなら立場が悪くなるようなことでも、それが好きだからやる、そんな行動原理を前田は宏樹に見せる。
僕はこのシーンが色々な人にとって救いなのではないかと思う。

この行動原理はステータスゲームと化した社会を生きるための術だ、と言いたい。
世の中はステータスゲームなのだけれど、ステータスゲームだけではない。ステータスが下がると分かっていながらもやめられないことや、ステータスなんて全く意識せずにやることが世の中にはいっぱいある。
これはつまり、社会的な視線から距離を置いた、個人的感覚を大事にしようということだ。

XのようなSNSではどうしてもステータスゲーム的側面のメッセージが強い。その論破力のようなものも強烈にある。
なぜならステータスとは権威であり、勲章であり、支持であり、生産の結果であるからだ。どう考えたって強い。
それに対して個人的な感覚の説得力は弱い。自分は「こう思う」と言えば、それこそ「それってあなたの感想ですよね?」と言われてしまう。そして一人歩きする「それってあなたの感想ですよね?」がさまざまな個人的感覚を辻斬りしていく。

私である、ということはつまり私はこう思う、ということである。
私はこんなことを思い、こんなものを食べ、こんなところに行き、こんなことを見て、こんな人と会ってきた。そんな無数の個人的感覚や私的な領域の思い出、経験が折り重なってその人は出来上がる。
しかし、ステータスゲームが襲いかかる。
ステータスを高めるためにはこうするべき、こうあるべきだという規範が行動原理に染み付き、思考パターンや物事の解釈までを捻じ曲げていく。
「俺はこれがいいと思うからやりたいんだよね〜」という感覚がすぐさま「それってダサいぞ」というステータスゲーム的視点によるメタ認知の影響を受け、社会的感覚に塗り替えられてしまう。

どうすれば、か弱い個人的感覚を巨大で邪智暴虐なステータスゲーム的規範から守れるんだろうか、と考えている。

この個人的感覚というテーマはとても大事だ。
僕はずっとステータスにばかり依存してきた。物事の見方が全てステータス中心で、実感や個人的感覚を捉えることができていなかった。

この考え方には、「生活」がとてもキーになっている。というのも、俺は生活を意識すればするほど社会的な視線から解放されて行っているように感じたからだ。生活を営むとはセルフケアであり、個人的な世界と個人的な感覚を守ることなのではないかと思う。

三宅香帆の『女の子の謎を解く』には『推し燃ゆ』をケアの物語として読み解いている箇所がある。
『推し燃ゆ』の主人公はずっと自分の生活を蔑ろにする。しかし、最後に自分の家の床に散らばった綿棒を拾うところで終わる。
この綿棒を拾うことが彼女のセルフケアの始まりであると三宅さんは言う。
生活はゴミを捨てるところから始まる。

自分のための活動が必要だ。
自分のケアをちゃんとする。
それができた時、そしてそれが真に自分の肉体的感覚、精神的感覚の両方を労ったものとして成立した時、俺はささやかな幸せを掴むことができていると思い返してみると思う。

若林正恭の『ナナメの夕暮れ』の『ナナメの殺し方』という節に「肯定ノート」というものが出てくる。
これは自分が何が好きなのか分からなくなった若林さんが自分の好きなことやもの、つまり個人的な感覚を見つけ直し、大切にするためのものだった。

なぜ、そんなことを始めたかというと”自意識過剰のせいで、自分が本当に楽しいと思うことに気づいていない”という予感がしたからである。

『ナナメの夕暮れ』p157

ナナメな視線とはつまり社会的な視線だったのではないかと思う。
この集団の中でグランデと言うことが他者にどう受け取られるか、俺にグランデと言う資格があるかどうか、グランデと言うことがどう受け入れられるか、と思うことはつまり社会での自分の立ち位置と行動が持つ社会的な意味を過剰に感じ取っているということだ。スタバでグランデと”俺なんかが”言うことに気取っていると感じてしまう。
これが自意識過剰という状態なのではないかと思う。

若林さんは自意識が過剰になった原因を自身が他人を馬鹿にしてきたことだと考えているが、僕は社会的な意味を過剰に感じ取ってしまうことがより根本的な原因なのではないかと考えている。
社会はどうしても自然発生的にステータスゲームを作り上げてしまう。そして何が偉くて何が卑しいかを無意識にシンボル化し構成員の間で共有してしまう。そうすれば、どうしたって行動に社会的な意味は乗っかってしまう。
自意識過剰な人間はその社会的な意味をとても過剰に感じ取ってしまう。
だからこそ、他者へのジャッジ(お前なんかがそんなことするな、という他者を馬鹿にする感覚)も厳しくなるのではないかと思う。
でも個人的な感覚を大切にできていれば、そこまで社会的な意味に縛られることはない(前田のように)。

そして、だからこそナナメの夕暮れの文庫版のあとがき『明日のナナメの夕暮れ』は、かなり長い事実描写だったのではないだろうか。
自分の視点はそれほど入れず、ただあったことを日記的に綴っていく。そのナナメな視点で多くの人を魅了した芸人が視点そのもののを薄くし、ただそこにある私生活を大事にする。つまり、ステータス的な視点から自分の行動や感覚さえもメタ認知し、自分の意志(個人的感覚)が分からなくなった彼が、個人的感覚を取り戻し、鮮明に書き記す。

彼が単行本で出した一つの結論が合う人に会うということだった。

そういう合った人にこれからも会えるようにがんばる、ってことが結論で良いんじゃないかなって思った。

『ナナメの夕暮れ』p252(引用は文庫版から)

このあとがきを書いた時からさまざまな経験を通して、彼はいろいろな合うものを見つけていったのではないかと思う。
特に料理に関してはそれを強く思う。ラジオのトークやテレビでも度々食の話をしているが、それは所謂グルメ通自慢ではない。その料理を作る人への興味やリスペクトから来る食べ物への愛情がそこにはある(例えば焼きそばの店「あぺたいと」)。
彼にとってはステータスよりも、人が大事なのかもしれない。合う人の作った料理、合う人がいる場所。
『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』では東京に住み続ける理由をこう書き記している。

ここで生活し続ける理由。 それは、 白々しさの連続の中で、 競争の関係を超えて、 仕事の関係を超えて、 血を通わせた人たちが、 この街で生活しているからだ。 だから、絶対にここじゃなきゃダメなんだ。 それにこの街は、親父が生まれて死んだ街だから。

彼は肯定ノートから発展して、さまざまなことに自分の感覚を見出していった。取り戻していった。そしてその結果が『明日のナナメの夕暮れ』の過換気症候群で倒れた時の話なんだと思う。

最初に読んだ時、僕はなぜこんなにも長々と「あったこと」を淡々と書くのか分からなかった。もっと答えをくれよ!と思っていた。面白い思考や視点をくれと思っていた。けれど、今になって分かった。これは若林さんが自分の感覚を取り戻し、その感覚を元に自分の人生を生きた日常の一コマなのだ。だからこそ「ナナメの夕暮れ」なのだ。

若林さんはステータス規範と個人的感覚のギャップがとても大きい人なんだと思う。そしてステータス規範に則るあまり、個人的感覚を燻らせ、忘れ去ってしまったんだと思う。
僕は、そこに共感した。ここからはその先の姿に学ぶ番だ。ただ共感してるだけじゃ進めない。
個人的感覚を思い出す。自分の意志をコンパスにする。それが今、僕が僕に求めることだ。

自分探しに伴う「自分がわからない」感覚とは何か。
それは個人的感覚とステータス規範のギャップがありすぎることによって、個人的感覚を抑制しすぎた結果、それそのものが分からなくなってしまうことである。
探し当てることのできる自分なんてないと人は言うが、それはある。少なくともあったのだ。けれど、どんどん社会に足並みを揃わせられ、自ら進んで揃える日々を過ごした結果、自分が何を好きで、何が食べたくて、どこに行きたくて、誰が好きなのかがどんどん不明瞭になっていくのだ。
それが自分が分からず、探さなければならない人の心の中で起きていることだ。


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