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自分の本質は変えられないのだから・・・

先日「スピリチュアルにはまった人」という言葉を目にした。(何となく気になったので、自分の思考を整理するためにこの記事を書いている。)確かに、そういう人も世の中にはたくさんいると思う。でも、ただ単に興味本位でスピリチュアル系のことに夢中になっている人と、ガチでそういう体質やフィーリングを持っている人とでは、似ているようで全く異なるものだと思う。今はスピリチュアルブームでいろんな人が「お手頃スピ」にはまって楽しんでいるけど、だいたいは「飽きたら簡単に手放せる程度のスピリチュアリズム」って人が多い。しかし、その一方で「ガチな人たち」は、飽きたからと言って手放すことは不可。魂の本質がそういう世界にあるから、今世はそれを貫いて生きていかなくてはいけないのである。

これを例えるとしたら、異性愛者と同性愛者で説明した方が分かりやすいかもしれない。「異性を愛するのか?同性を愛するのか?」これも上記に挙げたスピリチュアルと同様、飽きたからやめた~で簡単にチェンジできるようなものではない。バイの人は別として、やはり魂の本質が「異性愛」か「同性愛」かで定まっているのなら、自分を偽ることは不可能で、やはり死ぬまで自分の本質を貫くことになるのだと思う。

ちなみに、今までの社会は「異性愛者は普通で、同性愛者は異常」というくくり方だったと思う。これをスピリチュアルで例えると、スピリチュアル系のことに全く関心が無いしその能力もないorスピリチュアルなことを全面否定して全く信じないが「普通の人」で、スピリットワールドがあることを知っていてサイキックでありスピリチュアルの真理(霊的哲学)に添って生きている人は「異常な人」という定義だ。そして「普通の人」たちは、異端な人たちのことを馬鹿にしたり、色物で見たり、「そんなことを言うものではない」と叱ったり・・・等。同性愛も同じような扱い方をされてきたと思うけど、スピリチュアルも同様で「表に出してはいけない=タブー(禁忌)」という扱いをされてきた。今でこそ、それで命を落とすことはないけど、中世ならば、うっかり自分の本質や能力やバレたら、魔女狩りに遭って殺される危険性があった。まさに命懸けである。もちろん、同性愛者の人たちも第二次世界大戦の頃にはナチスから迫害を受けているし、世界的に「社会の属性から外れた人たち」は抹殺されて粛正されるのが当たり前の社会だった。

でも、当事者の本人にしたら、自分から好んでそうなった訳ではなく、それが「本当の自分」なのである。隠せば良いとか誤魔化していけばいいとか、そういう問題ではなく、自分の生き方にも大きく関係してくる大事な問題である。まさに生きる根源の部分。自分の本質に当たる部分にそうした個性が存在しているため、そこを切り離したり無視したり無理やり矯正して変えたり・・・・なんてことは絶対に不可能。しかし、寛容さに欠けた社会の中では、自分の本質がバレれば真っ先に異端扱いされて、下手をすると粛正される危険性がある。そのため、常に「粛正されても良い覚悟で、自分の本質を公開してオープンに生きるのか?」それとも「世間体を気にして自分の特性を押し隠し、自分を偽って生きるのか?」の選択を突きつけられてきた。昔は圧倒的に「隠す」人が多かったけど、今は「オープンにする」人が増えている。スピリチュアルも同様。肯定もしないけど否定もしない・・・と客観的に受け入れてくれる人も増えてきたと思う。

ちなみに私も自分のスピリチュアリズムを外に漏らしてはいけない・・・とずっと押し隠して生きてきた。日本は昔から「神がかり」的なことに寛容な社会だとは思うけど、それでも身近な人がスピリットの話をし出したら、絶対に「電波系」とか「気が狂っている」とか言われることは必須である。地域で誹謗中傷や噂の格好のネタにされる恐れもある。

でも、いつまでも「普通の人」として生きていくのは本当に困難。いろんなことが直感的にわかるし、人の裏表も見抜いてしまうし、何が必要で何が不要なのかもすぐにピンとくる。ピンときたらそれを実践しなくてはいけない。茨のような険しい道でも「ここが私にとって必要な道」と分かったら、その道を通らなくてはいけない。これがなかなか大変なんだけど(汗)、それをしなくてはいけないから「ガチな人」で生まれてきたわけだ。ならば今世で魂の課題を全クリして卒業するために、必要な体験は今のうちに全部やり尽くしておかなくてはいけない。・・そういう覚悟も必要である。更に、自分に合わないエネルギーに遭遇すると身体がしんどくなるし、霊的哲学に添った心の持ち方をしておかないと酸素不足みたいになって苦しくなるし、その度に自分に合った対処法を見つけ出さなくてはいけない。暗闇の中をまさぐり歩いているような感覚である。こんな感じで、自分を自分らしく保つためには、常にスピリチュアル的な生き方を実践して、心を磨いておかなくてはいけない。心を磨くことで高次のエネルギーと繋がるので、そうしていた方が私は自然体でとても楽でいられる。健康に暮らすには肉体と心と魂を健やかにしていくことが必要で、自分自身のケアも必要。シビアにクリアに自分のことを客観的に知っておく必要もある。また人間関係においても、ネガティブな人の輪から自分を遠ざけて、毒を浴びないように気をつけていかなくてはいけない。スピリットに頼まれて人にお話をするときもある。そういうときは、相手がビックリしないように、とりあえず「私の意見」として伝えるけど、人は意外といい加減で、普段から人の話なんて真っ当に聞いていないものだから、私の話も適当に聞き流して「変なことを言ってたな」と終わらせてしまうパターンが多い。でもまぁ私は種を蒔くだけの仕事なので、ただ伝える・・・。伝えて終わり。そうやって日々私の役目を一つ一つ完了させながら生きている。

そんな私も時代の変化を感じるようになり、今までは隠してきたけど、少しずつ自分を出すよう努力するようになった。今は信頼できる人にのみ自分のスピリチュアルな部分を出すようにしている。前みたいに隠さなくても良くなったので、スピリチュアルな話が自然にできるようになり、本当に気が楽になった。今は、古い時代と新しい時代の過渡期なので、まだ古いエネルギーが残っていて、それが私たちをまだ苦しめているのだけど、もう古いエネルギー力が弱まりつつあるので、これからは勇気をだして自分をオープンにしていくことが大切なのだと思う。

こんな感じで、私の場合「スピリチュアルにはまっている」のではなくて、ガチ「そういう風に生きていかないと死んでしまう」というタイプ。きっと同性愛者の人も同じような感じなのだろうと思う。同性愛者の人が「異性と結婚しろ」と言われても生理的に受け付けられなくて無理なのと同じく、スピリチュアルに生きなくてはいけない人も「普通の人のように鈍感に生きろ」と言われても無理なのである。また、同性愛者の人たちも、自分の本質がそれだったからそう生きている・・・のと同じで、ガチなスピリチュアル系の人も、流行に流されてファッション感覚ではまっている訳ではなく、自分の本質がこれだからどうしようもなくそう生きている・・・のである。ならば自分が少しでも楽に明るく生きていけるように、霊的哲学を実践してスピリチュアルに生きていけばいい・・・。人から「どうしてそんなことをするの?」「なんで?」と問われても、また「あなた変だよ」と言われても、そんなことは気にしないで「私は私らしく」と割り切り、この世界の出来事を楽しみながら乗り越えていきたい。

最近「スピリチュアルにはまっている人」というお題目のネガティブな記事を目にしたことがあって、「全部をひとくくりにされて、ガチな人まで変な風に誤解されるのは嫌だなー」と思い、この記事を書いてみた。今後は偽物は淘汰されて純真な本物だけが残っていくだろう。

どんな個性も「自分らしさ」であり「自分の本質」である。決して否定してはいけない。ポジティブに受け止めて堂々と胸を張って生きていきたいと思う。

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