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もう機能しない古いシステムは手放し、自分の感性を信じて生きる

最近、ふと感じたこと。

鈍感じゃないと生きていけなかったんだよね。
昔は…。
人々の意識が「人並み」という価値観に縛られていたから、個人の気持ちや個々の感覚よりも、「人並み」のライフパターンに自分を適応させ合わせていくことが尊しとされていた。

だから、常に「集団」の中で他と競い合うことで個々の価値が決められていく・・・というシステム。集団の中での自分の立ち位置とか、集団への貢献度とか、集団としての価値とか・・・云々。そこで個人の存在価値まで定められてきた・・・。そんな時代だったなぁ・・・と思う。

◇◇◇

そのため、学校でも職場でも、ご近所関係や町内会でも、とにかく「集団」化した組織は、個人の気持ちより集団としてのルールや決まりが優先されるから、個人の意思やフィーリングは完全無視・・・という世界。たとえて言えば「砂漠」だ。人間の感情や気持ちを「水」に例えると、そうした個人の気持ち(水)を、どんなに激しく砂漠(集団)の中で叫んで撒き散らしても、対象は「砂漠」なのだから、反応なんて何もありはしない。ただ単純に「感情の水」が吸い込まれていくだけである。どんなに激しく感情を吐露して撒き散らしても、砂漠という集団の塊は、撒いた後から感情の「水」は砂地へどんどん吸い込んでいく。そして個人の気持ちや感情が撒かれた跡形もきれいに消去してしまう。そう、個人の感情なんて最初から無かったような状態になる。集団の秩序と安定は守られるけど、そこに属している個人の気持ちは「最初から存在しない」という扱いなのだ。

だから、「集団」という名の砂漠の中では、自分の気持ちを撒き散らしても、そうした個人の気持ちや感情はどんどん深く沈んで砂の中に埋もれていき(あるいは意図的に抹消されて)、砂漠は何事も無かったかのように平穏なままで、なだらかな表面の砂地だけが大きく広がっていくのである。

人間一人一人は、集団という「砂漠」の中では、砂の粒のようなちっぽけな存在である。自分の横で誰かが自分の思いを率直に表現して露出させても、動きもせず、むしろ「どうしてあんな無駄なことをしているのか?そんな無駄なことを感じている暇があるなら、他にやるべき事をしろよ。」と非難するくらいで、我関せず・・・。他人が撒いた水が蒸発し吸い込まれていくのを黙って見続け、消えたら何事も無かったかのように、いつも通りの決まり切ったパターンの日常を送る。

これが一昔前までの私たちの社会。

そんな砂漠のような社会で、私たちは長い間、生きてきた。

こんなに過酷な場所では、鈍感じゃなきゃ生きていけない。だから、鈍感な人が多かったのだ。鈍感さが良しとされ、男性優位の社会も「鈍感さ」で許容され続けてきた。男も女も皆が鈍感になり、社会のシステム通りに従順に生きていくことを競い合うことで、人間の優劣を決めていた。

こんな世界、もしも自分の感覚が鋭くてセンシティブだったら、すぐに気が狂ってしまうだろう。自分の感覚よりも、システムに合わせることが大切だった時代。
どんなに自分らしく生きたいと願っていても、昔は、性差によって「生き方」も「振る舞い方」も「着る服の色」も「就く職業」も全てキッチリ決められていて、その枠からはみ出ることが許されず、人は幼い頃からこのシステムに適応できるよう厳しく躾けられてきた。

みんな、定規で線を引いたように、「学校を出たら、ちゃんとしたところに就職し、いくつまでに結婚して子供は二人以上。特に女の子は学など要らないから、早く嫁に行き、家事をして、子供を産んで育児をして、夫に仕えて、最後は老いた親の介護をして看取る。男は偉い存在なのだから、女は内助の功で男をしっかり立てる。女が社会で仕事をして働くなら、男と同レベルの仕事内容と量をこなすべし。女は幾つになっても半人前なのだから自分の立場をわきまえること。家族のために犠牲になるのが良妻賢母。」・・・そんな価値観の上に成り立ったシステムの社会で、私たちは生まれ育つて生きてきたのだ。

きっと男性にとってもストレスが多く苦労がが絶えない社会だったと思う。男特有の群れたがる習性に自分を合わせ、無理やり男社会の集団の中に属して、そこで自分を適応させて自分のポジションを確保しなくてはいけなかったから、すごく大変だっただろう。今風に言えば「女子力」が高かった男性は特に、自分の中にある女性性的な部分は全面否定されるから、絶対に表に出さないよう押し隠さなくてはいけない。そう思うと、昔の価値観の社会は、感性豊かな男性には非常に生きづらさを感じる社会だっただろうな・・・と思う。

この社会で生きていく以上、このシステムの社会(砂漠)の中に埋もれて生きていくしかない。
そのため、生きてゆく過程で、自分の感性を錆びらせ、感覚を鈍らせ、究極の鈍感者になり、自分の本当の気持ちも感情も夢も希望も、全て人生の何処かでドブに捨ててきたのだ。そして、社会が決めたパターン通りの人生を生きることを選択した。そうしなくては生きていけなかった時代。

だから、今も、妬む人・恨む人・憎む人・怒る人・・・そういう人が多いのかもしれない。自分の気持ちや意見どおりに生きることを許されず、ずっと自分を押さえ込んで我慢してきたから、辛抱してきた分、少しでも自分らしく自由に生きている人を見つけると、怒りがこみ上げて、自然と嫉妬心をぶつけたくなるのかもしれない。

我慢の反動で起きる意識の爆発。

あまりに押さえ込みすぎて、自分の本当の気持ちすら自分でも分からなくなっている人が多いんじゃないかな・・・。本当の自分を忘れてしまい、自分は本当は何が好きで、どうすると居心地が良くて、どんな風に生きたかったのか・・・見失っている人が多いのかもしれない。もしかしたら、最近起きる様々な事件や事故も、我慢や辛抱の限界に達した人々の心の叫びが「形」になって表れたものなのかもしれない・・・と思う。

◇◇◇

今、社会が大きく変わりつつある。

古い価値観に縛られて頑固に生きてきた世代も、どんどん年齢が上がり寿命を迎えていく。そう、社会を担う世代も新しい世代へと変わりつつある。

親世代が元気だった頃は、融通が利かない頑固な親世代の人々の意見に押し切られてしまい、常に自分の人生に我慢と辛抱を強いてきた人々が多かったと思う。でも親世代もやがて年老いれば、かつての勢いを失い、人間関係のパワーバランスも大きく変わる。そして意識の世代交代が進んでいく。

ここで、ようやく自分の気持ちを表に出して、自分らしく生きることが叶えられるのではないか・・・と思う。長い辛抱の上でようやく訪れた「春」だけど、もしも、まだ親世代が強くて影響力が大であっても、自分自身がもう我慢と辛抱の限界に達していて、コチコチに固まったエネルギーが自分に合わなくて辛くて苦しいのなら、思い切って勇気を出して自分の気持ちを表出させて欲しいと思う。不器用で上手く伝わらなくても、自分で自分の肉体の檻を破って、自分の気持ちを真っ直ぐに言葉で表現してほしい。そして行動して欲しい。自分の人生でそれらが出来たことを「良し」として認めてほしい・・・と思う。

案外、今、勇気を出して行動したことが突破口となり、結果はどうであれ、違った方向で「新しい世界の扉」が少しずつ開くかもしれない。

古い世代の人々は、慣れ親しんだシステムから脱することを恐れ、変化を怖がり、新しいことを絶対にしようとしないけど、それが原因で自分が我慢ならないほど辛くて苦しいのなら、いつまでも従順に大人しく言うことを聞いくのではなく、自分からその殻を打ち破ることも必要だと思う。自分が行動しない限り、自分の今の環境は変わらないからだ。

◇◇◇

何かの折に、長い間、固く封印していた自分の心の扉がふと開き、自分の本当の気持ちが表に溢れ出るときがある。
そんなとき、私たちは、本当に長い間、自分の人生を他人に縛られコントロールされてきたことを痛切に感じる。
性差という固定観念、古い時代の価値観、世間の人々の勝手な思い込み、無知さ、世間体、低すぎる自己肯定感、親からの刷り込み、等々。社会を統制するために植え付けられた価値観が人々に深く浸透して集団意識となり、その集団意識に染まった思考をもつ人々の意識が「固定観念」となって先祖代々脈々と私たちの脳に刷り込まれ、それを正論だと信じ込ませ、その思考の枠からはみ出ないように厳しく監視し合い、心配という名の偽善の愛で干渉し、人の人生を支配してきたのだ・・・。

しかし、もうこの負の連鎖は、今ここで断ち切らないと・・・。

私は自分の子供たちの世代には、家や土地に縛り付けるような生き方を強要したくない・・・と思う。また、性差や学歴で人の一生を決めつけるような古いシステムを押しつけたくないし、古いシステムにバッチリはまって従順に生きていく子供達を見て「良かった。これで幸せになれる。」と安堵して安心するような愚かな大人にはなりたくない。自分を押し殺しながら窮屈に生きることの苦しさを実感しているからこそ、私は若い世代には自由にのびのびと生きてほしいな・・・と思う。

そのためにも、まずは自分の感覚を取り戻して欲しい。あるいは、今、自分がもっているその感覚を大切にしてほしい。

自分が感じたこと。自分の直感。自分の感性。フィリーリング。思い。正直な気持ち。本音。感想。感情。心の動き。身体の反応。・・・等。

そういうものを、自分の命のセンサーとして扱い、丁寧に大切に扱ってほしいと思う。そして、こうした自分の感覚を、他人の干渉めいた意見よりも大事にして尊重してほしいと思う。

これからの時代は、もう昔ながらの社会のシステムは通用しないし、個々に自分の直感を使って生き抜くサバイバルな時代に突入していく。だからこそ、もう古いシステムにしがみつくことを止めて、もう機能しないシステムは早々に見切りをつけて手放すこと。そして、自分の感性を信じて生きていくことだ。

そんなことを感じる今日この頃。

もう怖がることは無い。今こそ自分の魂の意図に添う生き方をするときであり、自分の価値に気づくときである。自分の感性を信じて、社会の既存のシステムから外れたところにある「本当の自分」「自分らしい生き方」を自ら掴み取るときだ。そう、今こそ勇気を出すとき。手を伸ばせば、すぐ掴めるところにあるのだから。

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