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対人関係における「好き」と「苦手」

この6月は、ネガティブにつかまって心も肉体も絶不調のなかにいたのですが、そんな大変な状況を通り抜けている最中、大変ながらも、自分自身を客観視して見つめ直すことができました。

すると、自分は

何が好きで、
何が嫌いで、


何を求めていて、
何を手放したいのか?

…が、だんだん見えてくるようになりました。

そのなかでも最たるものが

対人関係における「好き」「苦手」

…でした。

今までは、このラインが曖昧でぼやけていたのですが、今月の苦境を乗り越えたら、輪郭がくっきり見えてきて「自分の好きと苦手」がハッキリわかるようになりました。

ちなみに、私が「好き」だと感じる人は

①自分に正直な人(嘘がつけない人)

②自分の考えをしっかり持っている人&人の話をきちんと聞ける人

③他者との間の境界線をしっかり引き、簡単に感情移入しない人

…です。

要は「ちゃんとコミュニケーションができる人」なんですが、改めて周りを見渡すと、いい年の大人でも、自分の意思をはっきり確立させて、どんな相手とでも平等に愛をもって話ができる人って、なかなかいないものです。

もちろん、私自身も対人関係においては百戦錬磨とはいえず、若輩者?のため、まだまだ修行中の身なんですけど、ね…(汗)。

①「自分に正直な人」について

私自身、もともと根が「嘘がつけない性格」であり、常に「正直であること」を心がけているので、相手が「自分に正直な人」であると、一緒に居てもフィーリングが合ってとても心地よく感じます。

「正直である」ということは、常に自分自身をクリアに保っている…ということでもあるので、自分の中にズレや摩擦がなく、悩み事を一人で抱え込むことも少なくなるので(嘘や隠し事ができないため)、自分自身がとっても生きやすくなる…という利点があります。

それに、嘘・ごまかしや虚勢を張る必要もないので、ありのままの自分を出していくことができて、気分的にとっても楽です。

そんな自分と同じフィールドに立つ人…ということで、相手も正直でうそがつけない人だと、話をするにも、理解や共感を得るのも、とってもスムーズで楽ちんです。

それに、相手も自分も「正直であること」を信条にしていると、相手のことを疑う必要がなくなり、とても楽に受け入れることができます。結果、相手を信頼することもスムーズです。

しかし、世の中には、自分のエゴやワガママをそのまま人にぶつけることを、「自分に正直に生きている」「嘘がつけない私」というふうに勘違いしている人がいます。これ、本当に大きな間違いです。

「何を正直に伝えるのか?」の「何を」の部分。←ここが大事なんです。

勘違いしている人たちは「自分が感じたことを、そのままべらべら垂れ流すように喋ることが正直さなのだ」だと間違えて認識しています。

いやいやいやいや…(汗)、本当の正直さとは、「自分の真実を責任もって公表していく」という姿勢、これを持っているか否か…だと思います。

正直さの裏には、責任がつきまといます。決して言いっぱなしではないのです。

言ったことは「自分の真実」である…と、ちゃんと責任を持って言葉を放っているか?どうか?です。

つまり、誠実さをもって正直さを発揮している…ということ。

この誠実さが「正直であること」の価値を深め、絶対的な信用や信頼につながっていくのだと思います。

②「自分の考えをしっかり持っている人&人の話をきちんと聞ける人」について

私は、人の話を聞くとき、「この人はどういう考え方を持っている人なんだろう?」と興味を持って聞くようにしています。

そして、その考え方が自分と似ていたり共感できるものだと嬉しいですが、これとは逆に、自分とは真逆の価値観・自分が想像もしなかった感覚・自分にはない発想・自分とは異なる考え方…等、「私と違う」部分を見つけたときも、また楽しいものです。

自分と違う部分を発見すると、そこから自分の見識が広がり、自分の価値観も大きく拡大していくような気がします。自分の心の器・キャパが広がっていくような気持ちになるのです。

だから、似たような意見や価値観ばかりに触れるより、自分とは異なる世界観や価値観の人に遭遇して、その話を聞く方がとってもためになり勉強になります。

でも、世の中には、自分とは異なる価値観や意見を持つ人を見つけると、許せなくなったり、マウントし始めたりする人も多々います。

ここにも①と同様に、やはり勘違いしている人がいて、「本物と偽物」が存在します。

本物の人たちは、自分の考えをしっかり確立させていて精神的に自立している分、他者の考え方に触れたときも、自分の意見と同等に扱い、ちゃんと尊重して受け止めるところがあります。

そして、自分が人に意見を言った分だけ、相手の意見も同じようにちゃんと聞き、相手のことを理解しようとします。

つまり、自分の考えを大切にしているからこそ、人の意見にも敬意を払い大切にする気持ちを持っているのです。

もしも相手の意見が自分の意見と真逆で反対のものであっても、客観的に受け止めて、「それがあなたの意見なんですね」と理解を示します。

相手の意見を受容するということは、相手がその意見を持つことに至るまでの経緯や、その人のこれまでの人生経験をも、全て丸ごと受け止めることでもあります。

それは、自分自身の今までの人生の経緯を肯定的に受け入れることでもあり、自分を受け入れているからこそ、人のことも受け止められるのです。

そして、相手の話を聞いた上で、自分なりの解釈を持ち、認識を深めていく…。人との会話は、自分の知識や認識を広げ深めるツールでしかありません。

そういう大人の割りきりが出来るから、人の話をちゃんと聞ける人は、人と間に適度な距離感を保つことも上手く、一緒にいても心地よいです。

しかし、偽物の人たち(勘違いしている人たち)は、そうはいきません。

偽物の人たちは、そもそも自分の意見を持っていません。

一見、その人の意見かな?と思いきや、よくよく話を聞いてみると、誰かの話の二番煎じだったり、親から刷り込まれた価値観をリピートしているだけだったり、他人の意見や話をかき集めて、それを「自分の意見」として滔々と語っているパターンが多いです。

つまり、「親から刷り込まれた価値観や影響力のある人の意見を、そっくりそのまま自分の考えだと思い込んでいる」というパターン。

特に、私が苦手だと感じるのは、楽しい宴席やお茶会で、突如、政治やイデオロギーの話を吹っ掛けてくる人たち。

このタイプの人たちは、もともと自己肯定感が低くて、その低さを補うために自分以外の他人の価値観や意見を自分のなかに取り込んでいて、それが自分の意思であり意見である!と信じています。

しかも、政治とかイデオロギーとか、少しでも違えば、すぐに対立や喧嘩になりような話題ばかり持ちこんできます。

でも、よく聞くと、たいていの場合、その人が語るイデオロギーの話は「他人のコピー」なんですよね(笑)。

プライドが高い人ほど、政治やイデオロギーの話が大好きです。

でも、私からすると、それらの話題は自分の性癖を語るくらいプライベートな話題だと思っているので(特に地方だと価値観を二分するようなこうしたネタは、とてもデリケートで難しい話題です。普通はしません。)、私なりにちゃんと自分の意見はもっているけど、普通は避けます。意図してしません。

でも、勘違いしている人たちは、人々の「あえて遠慮して触れないでいる空気」が分からないから、余計に饒舌に語りたがるのかもしれません。

高すぎるプライドが「見栄」となって、ますます空っぽの自分を隠すべく、他人の意見や思想や価値観をかき集めて、自分のなかに取り込み、理論武装して、人にべらべらと語るのだと思います。

そして、自分が大いに語った分、逆に人の話は全く聞こうとしません。

自分とは異なる意見を相手が出してきたら、自分が不愉快で不安になるから、だから、相手には話をさせないのです。。

また、人の話を聞かない人たちは、人の話を客観的に受け止めて聞くことは「負け」だと思っている節があります。

ただ単に人の話を聞くだけの話なのに、そこに「勝ち」「負け」の思想を持ち込むところが、人の話を聞かない人たちの特徴です。

そのため、人に何か言われるのが嫌だ、人が意見することは許さない、私の意見の方が正しい、私と同じ意見でない者は全て間違っている!と、広角泡飛す勢いで、人を打ちのめそうとするのです。

ですので、こういう人って、本当に面倒くさいです(汗)。

どうも様子を見ていると、こういう人たちの脳内は

「自分の話を聞く人間=自分に服従した者たち」

…という思考みたいです。

だから、「オレの話を聞く=こいつはオレに服従した」と思い込み、ますます調子にのって来ます。

そして、こちら側の意見は「お前に屈服するつもりはない」と言わんばかりに、絶対に聞こうとしません。頭から否定して拒絶したり無視してきます。

こういう人たちって、根本的にコミュニケーション能力が欠如しています。

会話とは、相手と対等の立場で自分の意思や思いを伝えあい交流するためのツールです。コミュニケーションとは「知的な遊び」なのです。

しかし、話を聞かない人たちは、知的好奇心なんてそもそも無いみたいで(笑)、会話は「知的な遊び」だという認識が全然無く、主従関係を確認・確定するための道具の1つだと思い込んでいます。

だから、

オレ様の話を聞かせる=聞かせる相手はオレ様の僕(しもべ)

…という図式を勝手に脳内で作り上げ、そのように相手にも「オレの下僕らしく振る舞うように」と強制してくるのです。

ハラスメントの加害者なんかは、このパターンで脳内が構築されているのでしょう(汗)。

こちら側からすれば、「お前何様?いつからお前の下僕になったんだよ。勝手にマウントするなよ、猿山のサルか?」と思います(笑)。

変なマウントや主従関係を、「会話」のなかに持ち込もうとする野暮な人間は、これからの時代、どんどん時代に取り残されて孤独になっていくだろうと思います。

③「他者との間の境界線が無くて、すぐに感情移入してくる人」について

感情移入してくる人のことを、昔は「優しい人」「思いやりにあふれる人」「気が利く人」というふうに、プラスに認知されていたと思います。

でも、今の私は、「感情移入する人は苦手だなぁ~」と、心から実感するようになりました。

昔は、感情移入してくれる人が身近にいてくれると、こちら側が何か言って説明しなくても、向こうから勝手に私の姿をみて、それなりに察してくれて、私のことを勝手に評価して、それを周りの人たちに噂として勝手に流してくれます。

感情移入してくれる人たちが、あれこれお節介を焼いてくれるのは、以前の私にはありがたく感じられたし、また、私のことを勝手に察して噂を広げてくれるのも、上手に利用すればそれなりに都合も良かったし、ある意味、とても便利な存在でした。

でも、最近になり、自分の意思で自分の人生を生きようと思い立ったとき、感情移入してくる人たちの思いや気持ちが、なんだか重くて負担に感じられるようになりました。

つまり、私はAだと思って取り組んでいることを、勝手にBだと決めつけて、Bだ!Bだよね!と押し付けてくる…。

そんな感じなのです。

以前のような「AでもいいしBでもいいよ」という優柔不断な私なら、感情移入してくる人たちの言動が素直に受け入れられたのに、「私はAがしたい!Aをする!」と決断できる私になったら、感情移入してくる人たちの「思いやり」「気遣い」が鬱陶しくて重苦しく負担に感じるようになりました。

なんか下心というか、その人の本心からではない打算的な損得勘定を感じてしまい、居心地が悪くて気持ちが悪く感じられるのです。

本当の思いやりって、その人の好きなように自由にさせてくれること。これが本当の愛であり優しさだと思うようになったのです。

ですので、特に「境界線をズカズカと越えてきて、勝手に感情移入してきて、私の話も聞かずに、思い込みで行動してくる人たち」が、本当に苦痛で苦手になりました。

そういう人たちは、世話を焼くほど「自分は良いことをしている」と勘違いしているので、なかなか自分の問題点が認められず、こちらの話も素直に受け止めてくれないので、本当に面倒臭いです。

距離感のないお節介を善行だと信じ、自分は善いことをしている人だと思い込んでいるのです。

そういう場合、最近の私は、自分の気持ちを正直に伝えるようにしています。

自分の意思を伝えて、「こういう意見もある」ということを知ってもらうことも、相手にとっては必要な経験だと思うからです。

こうして、はっきりお伝えして、やんわりお断りしたり、自分の意見を表明したり、その都度その都度、勇気を出して話すことを心がけていますが、それでも押し掛けてくる場合は、心のなかでパッツンとご縁の糸を切るようにしています。

相手に縁切りを言うわけでもなく、ただ、心のなかで縁を切り、そっとフェードアウトして疎遠になるようにしています。

これって、どちらが悪いとか、どっちが正しいとか、そういうことは関係なく、ただ、

もう自分とは合わない世界の人たち

…ってことです。

生きている世界が違うのです。

だから、どちらが悪いとかでとなく、感情移入する人達も世の中には必要な存在であり、
私には合わないだけで、世の中には需要はあるわけです。

だから、私から非難したり否定する必要はなく、静かに離れていく。フェードアウトして距離をおく。

それでいいのだと思います。

感情移入する人たちは、とても特徴的なので、パッと見つけたらさっと引いて、相手にお節介を焼かせないように私も気を付ける…。

それを意識してます。

最後に…

こんな感じで、私の対人関係における「好き・苦手」がはっきりしてきました。

今までは、どんな人でもオールマイティーに広く浅く、そして適当に?付き合ってきましたが、もうこれからは私も50歳になるのだし(人生の先が見えてきたので…汗)、もう我慢や無理はやめて、「好きな人達」と楽しく交流するほうにエネルギーを使いたいな…と思いました。

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