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愛することを認められて愛されることを知っていくから

娘の育児に奮闘して5年の月日が過ぎた。

振り返ってみれば、私の場合、娘が怖くて育児が楽しめないといった育児不安があり、それは「どんなことがあってもこの子は私を愛している」という、子から親に向けられる無償の愛に対する信頼や安心感の欠如からくるのかもと思ったので少し詳しく書いてみようと思う。

条件付きでないと子に愛される親になれない。だから教科書通りのいい母親を目指したり、わがままにも振り回されるのだけど、期待通りの反応がないとどうしたら愛されるのか不安に感じて苦しくなる。

子どものタイプにもよるのだろうが、娘は私が顔色を伺うように振る舞うと、不満そうにわがままが加速していく。そうして私は「こんなに頑張っているのに何が不満なの」と親子関係を苦痛に思うようになる。

親として愛情表現をしているつもりで、根底には愛される親であるという自分の存在価値を確認したい身勝手な心理があるのだろう。

娘のワガママが過ぎる場面に「ママのことをこんなに愛してるのにどうして私を怖がるの、どうして幸せを感じてくれないの」とセリフをつけてみると説明がつくし、自分の愛する能力を否定されたら、子どもでも誰でも傷つくのは当然のことだろう。

不健全な親子関係を築く「過保護」と、子どもの自己肯定感を伸ばすと言われている「受容」、これをきちんと体得できずに迷う親は多いと思われ、私もその一人だ。

「この子はありのままの私を愛してくれる」という気持ちで子どもを感じ取ることで育児に対する気持ちは変化していくと思う。

育児についてだけでなく、自分自身を生きることが怖い人は「無償の愛を与えられなかった」という視点でなく「自分から親への無償の愛を受け止めてもらえなかった」という視点で自分の痛みを見つめてみるといいのではないだろうか。

自分の無償の愛で幸せを感じている親の姿を見て、愛する喜びを知りたかった。

自分は愛されていないことが孤独なんじゃなくて、愛することができないから孤独なのかもしれない。

「私は愛される価値などない」ではなく「私の愛には価値などない」と思っていないか私も今一度自問してみようと思う。

自分には愛する能力がありその愛で人を幸せにする力があるという感動を重ねて、自分はありのままで愛される存在なのだという感覚を育んでいくことができる。

娘のことをずっと育てづらい子だと感じてきたけど、育てづらかったのは親である私の愛を感じ取る力だったのかもしれない。

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