功利主義で動く市場の是非

市場メカニズムは功利主義に基づいて動くべきものであるか否か。ここで考えるべきなのは、功利主義というのが、損か得かという経済的価値判断に基づいて行われるべきものなのか否か、ということではないだろうか。この部分に、功利主義を経済学に適用する時の問題点が集約されているように感じる。

功利主義は損得勘定か

前回の労働のところで見たように、労働を純功利主義の観点から捉えれば、損得勘定とは関係なしに自分のやりたいと思うことをやることで価値が生じることになる。その市場原理への適用の際に、自分の好きなこと、やりたいことをやる、ということを、自動的に定量化して、得だからやる、損だからやらない、という一面的な解釈を当てはめることが、功利主義を経済学的に運用する時の最大の問題点となっているのではないだろうか。これによって労働価値というものが、損か得かの判断の繰り返しであるという、デジタル的なものとして定義されるようになってしまったと言えそう。

商人的功利主義

財市場で考えたとき、市場とは、本来、一人一人がさまざまな欲しいものを手に入れるのにそれを調達する場で、それを瞬間的な損得勘定で行うというよりも、さまざまな商品を見て回って個別の違いを比較検討した上で買うか買わないか決めるという、その判断プロセス、選択肢を多様に保つための場であると言える。それを、商人的な視点で見ると、安く仕入れて高く転売することで利益を出す、ということになり、できる限り早い損得勘定判断で、ということになり、それが市場における行動原理として一般化されてしまっているように見受けられる。

ケインズ的市場観の問題

これを、ケインズ的な市場観を検討することで精査してみたい。ケインズの美人投票的な市場観に基づいた時、果たして美人は皆が美人だというから美人になるのか、という、ジェンダーイシューやソーシャルバイアスを含んだ非常に難しい問題が提起される。これはやはり、その構図設定の段階で、そもそもがあまり上品な例えではない上に、個々人の価値判断を社会的な判断に劣後させるという大きな問題を紛れ込ませたことに問題があるのでは、という気がする。

投資家の原理と財市場の原理

ケインズの原典に触れることもなく一般的印象からの議論となるので、誤りがある可能性は十分にあるのだが、ケインズ自身は、これを金融市場における投資家の行動原理として用いているわけであり、それを全ての市場、とりわけ財市場で働く市場の原理として普遍的に当てはめようとするのは大きな誤りなのだろう。

財市場と金融市場の違い

ケインズ的には少なくとも財市場と金融市場は分けて考えており、それをマクロ的に統合するためにその金融市場の特性を説明したのだ、ということがありそうで、それを財市場にまで当てはめてしまったら財市場と金融市場の均衡点の交差点、というマクロ経済均衡の原理そのものが機能しなくなってしまうのではないだろうか。つまり、財市場と金融市場ではその市場メカニズムの動き方が違うから均衡線が変わってくるのであり、それを全て金融市場のメカニズムに揃えるのならば、その金融市場自体存在意義がなくなってしまう、という存在論的な矛盾があるのだ、という理解が必要なのだろう。金融市場で投資家が美人投票的に行動するのは、いわば自分では価値のあるものを生産できないので、他者の評価をすることでその鞘取りをせざるを得ないのだ、という、自らの価値を市場で問うという財市場とは全く違うメカニズムであるということは考えるべきなのだろう。

ケインズの市場理解の位置付け

つまり、ケインズは、スミスが見えざる手として深い検討に至らなかった価格による需給調整の部分をマクロの金融市場の解析によって行い、そのメカニズムとして美人投票の例えを入れたのだと言えるが、マクロ商品市場ならばともかく、株式市場における美人投票的行動が、個別財についての価格による需給調整につながるか、と言えばそんなことは原理的にはつながらず、つまり利益率を一般化した金利水準に依存したIS-LM分析は、ミクロとマクロの市場を繋げて市場メカニズムの原理を明らかにする、という点においては間違っているのだ、と言わざるを得ない。財市場の需給は、一般金利水準によって調整されうるものではないのだ。

ケインズ的市場理解の歴史的背景

もっとも、ケインズ理論によれば、財市場の均衡はいわば所与であり、金融市場の均衡が個別のそれに影響するのだ、などとは言ってはおらず、単に金利水準の変更が財市場のマクロの均衡に影響を及ぼしうるということを言っているだけであり、その意味では結局見えざる手のメカニズムは解明されていないのだが、その水準を全体的に上げ下げするのに金利の変更が役立つ、ということを理論化したに過ぎないのだろう。そして、その時代背景を考えれば、投資と資金調達というものがほぼ株式市場で行われていたという、現代から見れば非常に限定的な金融市場において、その市場均衡を考えたときに得られた理論であり、その後の金融市場の発達によってその部分が大きく肥大化したことで、財市場の均衡が金融市場のそれに大きく圧迫されるようになっていると言えるのだろう。つまり利益を基準に見た場合、それに特化した金融市場が財市場よりも”効果的”に機能するのは当然のことで、利益とは異なる要件が多く入りうる財市場が、経済学的分析において単純に利益で測ることのできる金融市場に従属するようになるのは、ある意味で必然だとも言える。

金融市場の財市場に対する優越

そして、金融市場への介入は正当化される一方で、政策論として個別市場の需給調整への介入が正当化されうるか、と言えば、そんな見えざる手をわざわざ見える手にするようなことはあり得ないわけで、その点でも政府という非常に大きな存在が介入しうる金融市場が個別の財市場に優越するのは論理的必然だと言えそう。

効用理論による市場メカニズム説明

財市場における個別需給の動きを理論化しようとすれば、近代経済学の効用理論に依存せざるを得ないのだろうが、数学的にはそれは予算制約下での貨幣利用の極大化を説明しようとし、自らの時間利用の最適化という観点からはずれたものになっているのだろう。基本的には、人の行動を究極的に制約しているのは、誰もが平等に持っている時間であり、その使い方について効用が最大化されるように、という理論建てならば何とかうまく市場メカニズムを説明できるかもしれないが、単純定量化のためにそれを予算制約において、そこから得られる効用の極大化、としたことで、貨幣を中心にして考えることが理論的な中心となってしまったことが経済学の問題であると言えるのかもしれない。

経済的には説明し難い市場メカニズム

結局のところ、市場メカニズムを功利主義で説明するのに、経済的なそれに限定したら却ってそのメカニズムがうまく説明できない、という矛盾に突き当たるということなのだろう。皆が貨幣利用による効用極大化を行動原理とすれば、ゲーム理論的ゼロサムゲームが必然となり、それが効用の極大化につながるかと言えば、ゼロサムの言葉通り、それは効用のシェア争いにしかならない。

多様な需給から生まれる市場メカニズム

多様な需給があり、それをそれぞれの時間の有効利用の観点で選べば、その需給によって価格変動が起きるという理屈は成立しうるが、予算制約の中での貨幣の有効利用ということになれば、安いものへの需要に大きく偏ることは明白であろう。皮肉なことに、それはむしろ市場メカニズムを大きく歪める作用を持つことになってしまうのだ。

市場論についての問題提起に終始してしまったが、ここから何とか労働価値説と市場メカニズムを繋げることができるようにしてみたい。

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