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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(32)

明治維新における吉田 ー 吉田松陰を軸に

吉田藩について見てきたが、吉田というのは明治維新以降姓としても頻出するようになる。幕末期において目立つのが、長州の吉田松陰ということになる。率直に言って、その実在は怪しいのではないかと感じるが、とにかく例によってWikipediaから引用してその足跡を追うところから始めたい。いつものことだが、Wikipedia全体もそうだが、とりわけ明治維新時の記述は安定的だとは言えないので、その引用内容自体おかしな情報が含まれているかもしれないことは留意したい。ただ、こうして引用しながらコメントを残すことで、おかしな情報の履歴が残るというのもインターネット、そしてWikipediaの信頼性を高めることに寄与するのでは、と勝手に考えている。ここでは、吉田松陰に関連して、松蔭、玉木文之進、吉田稔麿、吉田清成を取り上げてみたい。

吉田松陰

文政13年8月4日(1830年9月20日)、長州萩城下松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、兵学を修める。天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。9歳のときに明倫館の兵学師範に就任。11歳のとき、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。13歳のときに長州軍を率い西洋艦隊撃滅演習を実施。15歳で山田亦介より長沼流兵学の講義を受け、山鹿流、長沼流の江戸時代の兵学の双璧を収めることとなった。松陰は子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」、「神国由来」、その他頼山陽の詩などを父が音読し、あとから兄弟が復唱した。夜も仕事をしながら兄弟に書を授け本を読ませた。
安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎などの面々を教育していった(山縣有朋、桂小五郎は松陰が明倫館時代の弟子であり、松下村塾には入塾していない)。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行うという「生きた学問」だったといわれる。
安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、間部要撃策を提言する。間部要撃策とは、老中首座間部詮勝が孝明天皇への弁明のために上洛するのをとらえて条約破棄と攘夷の実行を迫り、それが受け入れられなければ討ち取るという策である。松陰は計画を実行するため、大砲などの武器弾薬の借用を藩に願い出るも拒絶される。次に伏見にて、大原重徳と参勤交代で伏見を通る毛利敬親を待ち受け、京に入る伏見要駕策への参加を計画した。 しかし野村和作らを除く、久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎ら弟子や友人の多くは伏見要駕策に反対もしくは自重を唱え、松陰を失望させた。松陰は、間部要撃策や伏見要駕策における藩政府の対応に不信を抱くようになり草莽崛起論を唱えるようになる。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、長州藩に危険視され、再度、野山獄に幽囚される。
安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部詮勝要撃策を自ら進んで告白してしまう。この結果、死刑を宣告され、安政6年10月27日(1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷で執行された。享年30。

Wikipedia | 吉田松陰

玉木文之進

文化7年(1810年)9月24日、長州藩士で無給通組・杉常徳(七兵衛)の三男として萩で生まれる。文政3年(1820年)6月、家格では杉家より上にあたる大組士、40石取りの玉木正路(十右衛門)の養子となって家督を継いだ。
天保13年(1842年)に松下村塾を開いて、少年期の松陰を大変厳しく教育した(過激な、体罰を加えられることが多かったという。)。また親戚の乃木希典も玉木の教育を受けている。天保14年(1843年)に大組証人役として出仕。安政3年(1856年)には吉田代官に任じられ、以後は各地の代官職を歴任して名代官と謳われたという。安政6年(1859年)に郡奉行に栄進するが、同年の安政の大獄で甥の松陰が捕縛されると、その助命嘆願に奔走した。しかし松陰は処刑され、その監督不行き届きにより万延元年(1860年)11月に代官職を剥奪されている。
文久2年(1862年)に郡用方として復帰し、文久3年(1863年)からは奥阿武代官として再び藩政に参与し、その年のうちに当役(江戸行相府)に進む。藩内では尊王攘夷派として行動し、毛利一門家厚狭毛利家毛利親民の参謀を兼ね、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では萩の守備に務めた。その後、奥番頭にすすむが、明治2年(1869年)には政界から退隠し、再び松下村塾を開いて子弟の教育に努めている。なお、実子で継嗣であった玉木彦助は奇兵隊に入隊し、功山寺挙兵後の戦いで落命している。
明治9年(1876年)、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため、その責任を取る形で11月6日に先祖の墓の前で自害した。享年67。その跡は正誼の子、正之が相続した。
山口県萩市に旧宅が保存されている。

Wikipedia | 玉木文之進

吉田稔麿

天保12年(1841年)閏1月24日(1841年3月16日)、萩藩松本村新道に軽卒といわれる十三組中間(大組中間)の吉田清内の嫡子として生まれる。稔麿の生家は吉田松陰の生家の近所で、松陰神社の近くに吉田稔麿誕生の地との石碑がある。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、吉田も出席していたが、一度屯所に戻るために席を外す。しばらくして戻ると新撰組が池田屋の周辺を取り囲んでいたため、奮闘の末に討ち死にした。最近の説では、「長州藩邸に戻っていた吉田が脱出者から異変を聞き、池田屋に向かおうとするも加賀藩邸前で会津藩兵多数に遭遇し討ち死にした」とされている。また別の説として、「池田屋で襲撃を受け、事態を長州藩邸に知らせに走ったが門は開けられる事無く、門前で自刃した」という話もある。満23歳没。

Wikipedia | 吉田稔麿

吉田清成

吉田 清成(よしだ きよなり、弘化2年2月14日(1845年3月21日)- 明治24年(1891年)8月3日)は、日本の外交官、財政家、華族(子爵)。幼名は巳之次。通称は太郎。留学中の変名として永井五百助を名乗った。
弘化2年2月14日、薩摩藩士吉田源左衛門の4男として鹿児島城下の上之園町に生まれる。
慶応元年(1865年)に藩の留学生としてイギリス、アメリカに留学、最初は航海学を学ぶが、後に政治学、経済学に転じた。明治3年(1870年)の帰国後に大蔵省に出仕して租税権頭、大蔵少輔を歴任、金本位制を主張する。明治5年(1872年)に外債募集のために渡米。カリフォルニア銀行やジェイコブ・シフと交渉する。ところが担保捻出措置としての秩禄処分に反対する岩倉使節団と衝突し、ニューヨークの新聞で報道されてしまう。それでもシフは引受に前向きであった。協議が必要であるというので、吉田はシフの代理人に連れられてイギリスへ。かいなく利率の交渉で平行線に。情報の早いロンドンにはたくさんのオファーが来た。結局オリエンタル・バンクの申し出を受けて、条件こそ良かったが申込の遅かったオランダ商館の方は流れた。翌年、外債は年利7%で発行され、借入金は大半が直ちに地金・洋銀へ交換され準備金に充てられた。
1874年にアメリカ滞在のまま同国駐在公使に任命された。明治11年(1878年)に締結された吉田・エバーツ条約で知られている。
明治12年(1879年)、前アメリカ合衆国大統領ユリシーズ・グラントの来日決定に伴って一時帰国し、接待にあたった。明治15年(1882年)に外務大輔に任命されて帰国、外務卿・井上馨の元で条約改正にあたった。明治18年(1886年)に農商務大輔に転じて、そのまま初代次官に任じられた。
明治20年(1887年)に子爵に叙せられて、7月26日に元老院議官に転出、翌年には枢密顧問官となるが、病気のため47歳で芝区白金志田町の自邸に於いて急死した。
生前、多数の手紙・日記・記録などを遺しており、これら2,700通は「吉田清成文書」として京都大学日本史研究室に保管されている。

Wikipedia | 吉田清成

松蔭、玉木、稔麿の経歴比較

まず、上の三者の経歴を比べてみると興味深い。まず、玉木と松蔭の二人は叔父甥関係だとされるが、どちらも早くに養子に出ている。特に吉田松陰は四歳で養子、翌年に養父が亡くなっているということで、いわゆる末期養子かもしくは後から吉田姓を買った疑いがある。それが天保六年で、それで玉木の松下村塾で学ぶとなっているが、玉木の方では松下村塾を開いたのが天保十三年となっている。それは、家督を継いでから十二年も経ってからで、随分と間がある。そして、玉木はその翌年の天保十四年から出仕していることになっており、松蔭のためにそれを開いたかのように見え、非常に不自然。そこで、松蔭の弟子で同じく吉田姓の吉田稔麿を見てみると、松下村塾が開かれた前年の天保十二年に生まれたという。

玉木文之進を軸に

これらのことを考えると、文之進はおそらく元から玉木家で、親類か何かの繋がりで杉家を経由して親を亡くした吉田稔麿を養子とし(あるいは後から養子扱いとすることになった)、そして翌年すぐに吉田家に養子に出した、ということではないか。あるいは、松蔭の九歳のときに明倫館の兵学師範に就任というのはあまりに荒唐無稽であり、稔麿と松蔭は同一人物で、名前と年齢を使い分けていたという可能性もありそう。もしかしたら玉木の松下村塾に繋げるためにかなり無理をして二人の経歴を繋がるようにしたか。松蔭は、嘉永三(1850)年九月に九州の平戸藩に遊学したとあり、これは稔麿の九歳の頃に当たるということで、松蔭の年譜で年号を書かずに年齢で記載している部分で稔麿と松蔭の使い分けが行われた可能性がある。
玉木は安政三年に吉田代官となったということで、これは稔麿の十五歳にあたり、一方松蔭の十五歳の時には山田亦介より長沼流兵学の講義を受けたとされる。玉木が吉田代官になった前年安政二年には松蔭がペリー来航に絡んでの投獄から出獄して、安政三年に禁固中の杉家で『武教全書』の講義を始めたということになっており、この吉田代官というのが玉木と吉田松陰・稔麿との出会いの年、つまり吉田を預かった年ということになるのではないか。
玉木が実際に松下村塾を開いたのは維新後に引退した後だと見られ、前原一誠による萩の乱に養子の玉木正誼と門弟の多くが参加したため自害、ということで、この件で、玉木は吉田松陰の師匠で、松蔭が松下村塾で教えていたという話を飲まされたということになるのではないか。

吉田清成の存在

吉田松陰は、松下村塾で教え、そこでとりわけ初代総理大臣となった伊藤博文が学んだということが、維新後の新政府にとって大きな意味を持っている。おそらく吉田松陰という人物が必要とされたのは、貨幣制度の導入の時に伊藤博文と吉田清成とがそれぞれアメリカ式と英国式を主張したということで、その正当性を定めるのに、どちらにしても吉田にルーツがあった、ということにしたいのではないか、ということが考えられる。伊藤と吉田の話は、株式会社改革への道1 銀行制度の確立でも少し触れたが、そのすっきりとしない国立銀行制度の導入から日本銀行の設立に至る話の後すぐに吉田は若くして亡くなっている。しかし、吉田の方のWikipediaにはそのあたりのことは何も記載されていない。さらに言えば、吉田清成というのは留学中に永井五百助を名乗ったとされ、本当に元から吉田姓だったのかが疑わしい。
ここで時代は遡るが、江戸時代初期に播州姫路藩主の池田輝政が、徳川家康と豊臣秀吉との間の小牧長久手の合戦で討死した父恒興の最期について討ち取った永井直勝に話を聞いた上で、我が父の首を取ったにしては石高が少なすぎるというのを家康に伝え、永井の石高が上がったという話がある。さらに永井尚庸は江戸初期の大名石高を記した寛文印知の責任者として名前を残している。個人的には、江戸初期の話には、かなり後世、明治以降の話を含んだものが紛れ込んでいるのではないかと疑っているのだが、ここで吉田稔麿が討たれた話に池田屋というのが出てきて、そして明治時代に民間銀行の先駆けとも言える三井銀行を大きくした池田成彬という池田性の人物が出てくることを考えると、萩の乱に本物の松下村塾の塾生の多くが参加し、乱後に玉木文之進が自害して長州閥を壊滅に陥れた代償として、銀行設立のところで長州の伊藤博文を立て、そこで押し出される形となった永井五百助を拾う代わりに吉田清成という名を与え、さらに吉田稔麿と吉田松陰とを別人物として池田成彬が中心となって造形したのかもしれない。あるいは稔麿を清成にするという計画もあったかもしれないが、長州出身ということではまとまらなかったのかもしれない。少し想像が過ぎたが、貨幣の導入というのは激しい政治闘争を伴ったものだっただろう。それを考えると、これは、ある意味で皇室よりも吉田を上に置こうとする取り組みだとも言えその点である種の精神的クーデターと言えるのかもしれない。というのは、アメリカでは貨幣に”In God We Trust”の記載があり、貨幣発行と神を結びつけるということが国家統合上非常に重要なこととなっている。それに見習い、吉田神道を背景に吉田という姓を神に見立て近代国家を作ってゆくという方向感の下、吉田松陰、稔麿、清成という人物が、玉木文之進をモデルにしてのちにそこから派生的に造形されたのではないかと感じる。

松蔭の罪状となったのが間部詮勝要撃策であり、これもどこかの段階で繋げられたのだと思うが、三河吉田と高崎の両大河内家の幕末藩主はどちらも間部氏から養子に入ったとされており、維新後に三河吉田や高崎における歴史の話がおかしい、という反応が出た時に、間部詮勝から吉田松陰に話が繋がるようにでき、そして最終的に反長州か、それとも長州の行った攘夷かというどちらかにその不満の矛先を逸らすことができるようにしたのではないかと思われる。

このように、明治維新と吉田という姓は深く結びついているようで、そこに注目すると更なる風景が見えてくるかもしれない。

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