続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(3)

戸籍制度と現代的アイデンティフィケーション

今回はVisionary-Essayとして、自己証明のあり方について考えてみたい。

戸籍制度はなぜ導入されたか

戸籍制度の導入について少しみたが、実際のところ、なぜ戸籍制度が導入されたのか、そしてそれはいつだったのか、ということは詳しく精査しないとわからないのではないかと感じている。基本的な考えとしては、明治新政府が税を貨幣で徴収するための下準備として、地租改正に先立ってこれを行なった事になっているが、地租改正に戸籍が必須であるとは思えず、どうもすっきりとした説明ではない。そして戸籍法は廃藩置県の前の明治4(1871)年4月4日に制定された事になっているが、ちょうどその時期はその管轄が民部省なのか大蔵省なのかで議論となっていた。民部省の歴史は短いながらも波乱に富んでおり、まず明治2年7月8日(1869年8月15日)民部官が改組される形で太政官に設置されたが、翌月の8月11日(1869年9月16日)に大蔵省と合併、さらに戸籍法の制定に先立って明治3年7月10日(1870年8月6日)に大久保利通が主導して両省の再分離が決定されたという。そして戸籍法の制定を挟んで明治4年7月27日(1871年9月11日)に改めて、民部省は大蔵省に合併されて廃止された。 つまり、戸籍の管轄の押し付け合いのようなことがなされている印象を受ける。これはどういうことかと考えてみると、おそらく幕末の攘夷の動きからずっと底流にあったのだと思うが、キリスト教の本格伝来によって、結婚に教会が関わるという事例が見受けられるようになり、そうなると幕府や藩の管轄ではどうにもならなくなる、ということがあり、大政奉還というよりも、版籍奉還によって徴税の責任を朝廷に投げ、自分たちはその間で中抜きをする管理人となって地位の安泰を図ろうとしたというのが明治維新の本質的な部分だったのではないだろうか。それを投げられた新政府としては、なんとか人民の管理を図らざるを得なくなり、そこで戸籍を導入してキリスト教の影響如何に関わらず徴税をできる仕組みを打ち立てる必要が出てきたのではないか。もっとも最初は民部省に管轄させようとしていたということで、宗教政策の一環として処理しようとしたのだろうが、列強の脅威もあり、直接的な宗教的な管理よりも徴税という形をとった方が説明しやすい、という事になったようにも感じられる。この辺りの管轄の揺れというのも、民心の不安を掻き立て、武一騒動のような一揆を頻発させた原因となったのではないだろうか。また、維新後には天皇すらも側室を持てなくなったという西欧的な文化の圧力というのがどれほどのものだったのか、ということは想像をいたすべきなのかもしれない。とはいっても、臣下の大物にも妾を持っていたものは多くいるわけで、これを奇貨として皇室を追い込もうとした動きがなかったとも言えず、とにかく西洋との接触がおおきな政変のきっかけとなる条件は整っていたと言えるのだろう。

地租と戸籍法

戸籍法の施行に合わせて明治5年3月に区画章程が発せられて大区小区制が導入された。これによって、旧来の村の区分を無視する形で新たな区が導入され、新政府の都合による行政区画で管理しようという動きが起こった。これは、民部省と大蔵省が合併したからこそできるようになったことだといえ、この辺りで地租改正と組み合わせて徴税管理を強化しようという事になったのではないだろうか。そして、すでにみた通り、おそらく戸籍制度の定着は、早くとも郡区町村編制法の公布がされた明治11年以降になるのではないかと考えられ、またこれもみた通り、地方行政官によっては、かなり融通の効いた形でその導入を行なった形跡もあり、地租の問題も含めて問題が大きくなったのは維新直後というよりも、もう少し時期が下った、大正や昭和になってからなのではないかと感じる。

アイデンティフィケーションと民法

こうしてみると、近代のアイデンティフィケーションは、新宗教による社会の動乱と、租税制度の改革が組み合わさって、政府側の都合によって定められたものだと言える。これは果たして現代的にも適用可能なものなのだろうか。戸籍制度を中心にした住民管理というのは、民法との間でさまざまな複雑な問題を発生させる。社会というのは多様な考え方で成り立っているので、一概に民法がどう、戸籍がどうなどと定められるものではないが、いずれにしても家族単位での住民管理を基本とする戸籍に縛られると、どうしても民法の自由度は制限され、保守的なものにならざるを得ないし、そしてその整合性をきちんと取るのはかなり大変な作業となる。嫡出子の問題など、法で縛るべきものなのかどうか、といった微妙な問題にも法が介入し、社会的な規範はきつくなる。かといって、民法の大幅改正となると、事によると憲法の改正よりも大きな議論を巻き起こす事になり、簡単にまとまるものではないかもしれない。

自然人管理の効果

一方で租税制度との関わりでは、現状マイナンバーで取り組みがなされているのだと言えるが、それに意味がないとは言わないが、基本的には経済の主体が法人に移っている時に、自然人のアイデンティフィケーションの統一によって得られる租税徴収の合理性というのは限られており、そこにそこまで手間と費用をかけるべきものなのか、という事自体議論となるべきだろう。個人による脱税よりも法人を噛ませたマネーロンダリングの方が大きな影響を持つと考えれば、それなら経済単位である法人の管理をもっと徹底するようにした方がよほど効果が高いだろう。

政府依存をもたらす政府管理のアイデンティフィケーション

さて、このような状況で、現代的アイデンティフィケーションを一体どのように考えたら良いだろうか。まず、アイデンティフィケーションである以上、承認する側ではなく、される側、すなわち自己証明される本人がその証明されるべきデータを保持するということが基本的な考えとなるだろう。つまり、戸籍制度やマイナンバーのように、管理する政府側が情報を一括保持するなどというやり方は、アイデンティフィケーションというよりも単なる管理番号にすぎないということだ。自分が自分であるという証明を、政府から発行してもらった書類やら番号やらでなければできないということがまず根本的に間違っていると言わざるを得ない。いくらそれによって政府の管理するサービスが便利に受けられるようになるといっても、自己アイデンティティの一体どれだけの部分が政府サービスに依存しており、そして政府の方針としてその依存度を上げたいのか下げたいのか、つまり、マイナンバーなどによって生活がどんどん政府依存になってゆくことを政策として志向しているのか、ということは厳しく問われるべきだろう。

情報の自己管理

私は、アイデンティフィケーションというのは、自分が自分であるということをどんどん確認して行ける、自己発見がそこに積み重なってゆくようなものであるべきではないかと考えており、つまり自分で自由にできることを積み上げてゆくこと、すなわちケイパビリティを拡張してゆくことで、それがどんどん充実してゆく、というようなものでなければならないと考えている。そのためには、どこからでも接続できるようなインターネット上で、その接続権であるとも言えるIPアドレスを個別に確保し、そこに自分のサーバーを立てて自分が必要だと判断した情報を全て格納し、それを自在に使えるようにしてゆくことが必要であると考えている。そのための議論は別にしているので今ここで繰り返すことはしないが、アイデンティフィケーションとして情報の自己管理ということが大変重要であるということは念を押しておきたい。

管理側の考えるべきこと

そこで、これまで管理するツールとしてアイデンティフィケーションを使ってきた側はどうすべきかということを考えてみたい。まず、ここまで戸籍とマイナンバーを例示しているが、その二つを整合させるということは明らかに難しい。マイナンバーを使って戸籍謄本等の発行依頼をするのは極めて簡単だろう。しかしながら、だからと言って戸籍の中にマイナンバーを全て書き入れ、それによって例えば扶養関係を確認する、といったことは、個人情報保護の観点からも難しいだろう。そうなると、それぞれの番号は、結局個別に管理せざるを得ず、マイナンバーを入れたからといってなんらかの業務改善効果が認められるのか、といっても、全くないとは言わないが、それは極めて限定的なのだろう。使用者側から言えば、日常生活で統合的な番号を使うにしても、国家レベルのサービスなどはほとんど必要なく、地方自治体で事足りることだと言える。それを、わざわざ国家レベルのマイナンバーを通して行うということのハードルの高さ、というか面倒臭さというのが想像できるのだろうか。地方自治体レベルであれば、職員であってもどこかで顔見知りであるということから、番号を使っても大丈夫だ、というある程度の安心感がある。しかし、それが国管理のサーバーを経由するとなったら、そこでいったい何がなされるのか、ということを想像もし難い。なぜそんな不安を抱え込んでまでわざわざマイナンバーを使う必要があるのか。それはマイナンバーでなく、自分の持っている情報にしても、というよりも、自分の持っている情報であればなおさら、そのような不安にさらしたくはないと思うのが心情であろう。だから、管理は基本的に個々人と地方自治体との関係で必要な情報を出し、そして自治体側で例えば引っ越しなど他の自治体との連携が必要な情報があれば、そういう事については個別承認を得た上で自治体の紹介付きで本人がデータ送信するというシンプルな仕組みにすべきではないだろうか。そして、自治体はデータの通り道になるだけで、みたデータを組織内に保存するということは一切ない、ということも定めるべきだろう。今は逆に自治体の保持する情報が、たとえ自分のものであっても、それを外に持ち出すことができず、窓口で見るだけといったこともあり、そんな本末転倒な仕組みはおかしいのだ、という感覚は徹底されるべきなのだろう。

記憶の補助としてのIT

管理側が情報をもてないとなると、さまざまな点で相互承認の仕組みというのが重要となる。戸籍の代わりに親子関係の相互承認、仕事等の履歴で何か共同作業があったら相互承認など、なるべく頻繁に相互承認を行うことで個別の経験が他者の承認の元で積み重なってゆくという仕組みがあれば、発展的・蓄積的な関係性が出来上がってゆく。これは、誰が何をやっているのか監視するような相互監視の仕組みよりも遥かに前向きで、互いの経験をシェアするという意味でも望ましいものではないかと感じる。現状は、共同作業の経験は記憶に刻み込む、ということでお互いの信頼を構築しているのだといえ、それはそれでもちろんとても大事なのだが、それをアイデンティフィケーションの中に組み込んでも決して悪いことではないだろう。記憶の補助としてのITというのはもっと生かされても然るべきではないだろうか。

民法の分権化

さて、このような関係性のあり方のルールについてだが、まず、民法で厳しく規定されている家族についてのアイデンティフィケーションが相互承認だけとなれば、その縛りはかなり緩くなる。そこで、民法については国家レベルではなく、現状ならば基礎自治体レベル、私の描いているイメージではだいたい100万人規模の都市地域圏レベルでそれぞれ定め、そこで家族のみならず必要ならばさまざまな相互承認になんらかのルールが必要になるならばそれを定めるという事にしたら良いのではないだろうか。相互承認についてはその民法圏の枠組みを離れたところでも起こる可能性があるが、特別の縛りがある法圏ではそれを明示して優先事項として認めてもらう、といったことが、個別の関係性であればそれほど難しいこともなくできるのではないか。これによって法制度の民主化、分権化というものも少しづつ進んでいったら良いと考える。

貨幣との関わり

最後に租税関係となるが、経済についてはまた別の大きな話となるのでここでは深く触れることはできないが、貨幣が交換促進ツールであるのならば、それによって租税を徴収するというよりも、むしろ個別に貨幣を流し込んで社会の中での交換がどんどん促進されるような仕組みにして行った方が良いのだろうと考える。

現代的アイデンティフィケーション

いずれにしても、社会管理手法としても、租税徴収手段としても、近代的に設定されたアイデンティフィケーションの仕組みはすでにその役割を終えたのではないかと考えられ、現代的なアイデンティフィケーションについて、今度はみんなが納得するような仕組みを議論を通じて定めてゆく非常に良い機会がやってきているのではないかと感じる。新しい時代が、寛容と対話の精神によって開かれてゆくことを期待したい。

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