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国際金融制度改革の必要性4 ー 変動相場制と為替先物

戦後通貨体制の確立

さて、戦後通貨体制についての構想は、シカゴ大学のジェイコブ・ヴァイナーを中心に1939年、まさに第二次世界大戦が始まった頃から動き出しており、まだ太平洋戦争の始まっていなかったその時期には、東南アジアの情勢は考慮の外であった。太平洋戦争が始まった1週間後には財務長官モーゲンソーは指揮下のアメリカ財務省で働いていたホワイトに戦後通貨体制についての草案づくりを命じ、ヴァイナーは翌年1月にはモーゲンソーに呼ばれてホワイトと共に働くよう言われている。ヴァイナーはすでに金本位による固定相場ではなく変動相場制を念頭に制度作りを考えており、その際にいかにドルを基軸通貨とするのかということが重要なテーマであったと言える。アメリカ財務省は第二次世界大戦自体を金本位制をドル本位制に取って代わらせる為の戦い、少なくとも銀本位にはしないものとして主導していたともいえる。

そんな中で、ケインズはどこか一つの国の通貨を基軸通貨にするのではなく、国際決済専用の通貨を作るという、当時の世界の覇権国としては非常に穏当な案を出したのに対して、ホワイトは戦後に当然債権国となるであろうアメリカの立場から、ドルを基軸通貨とした上で債権保全力の強い制度導入を図ったのだと言える。それを後押ししていたアメリカの論調では、ケインズの案は債権者に厳しすぎると言うことで批判的に見られていたとされる。結局IMFは、債権債務の額を確定させる為にドルを金に固定した固定相場体系によって為替管理をするIMF8条国からそれをしない14条国への移行を促すという方向で話がまとまって動き出した。それが、欧州や日本が債務返済をほぼ終わり、8条国から14条国に移るにつれ、ヴァイナーの思惑通り、アメリカの貿易黒字は当然減り、次第にドルの金兌換に基づいた固定相場制では世界経済を支えることができなくなってきた。

変動相場制の導入

そこで、1969年の通貨バスケットSDRの導入に引き続き、1971年のニクソンショックによってドルと金の交換が停止され変動相場制に変わっていくことになった。固定相場の下では通貨バスケットの価値も安定していたのだが、変動相場となると今まで基準となっていた通貨バスケットの価値自体も、構成通貨の強弱によって流動化することになる。SDRはそのままでは使えないので、基軸通貨であるドルに替えて使用することになるが、ドルが継続的に値下がりすれば、同じドル金額でもSDRベースでは経時的に債務負担が増え続ける、という矛盾を抱えることになったのだ。先進国は債務をほぼ返済し終えて、ドルに対して自国通貨が強くなる一方だから良いとしても、その時点で途上国だった国は、ドルベースで借り入れし、そのドルが他の主要通貨に対して値下がりし、更に自国通貨はそれ以上に値下がりするので、債務負担が雪だるま式に増えてゆく、ということになる。1980年代に起こった中南米を中心とした途上国債務危機とは、まさにこのような状況で深刻化していったのだと言える。IMFは自らの手法が時代の変化について行っていないことを棚に上げ、逆に構造改革を途上国側に強いることで、変動相場制の負担を全て途上国に押しつけてきたのだ。この理屈の根底には、途上国発展理論であるロストウの段階的経済発展理論というのがあった。つまり、途上国は条件が整うことで次第にテイクオフ、離陸してゆく、というものであり、途上国であると言うのは途上国側の環境や条件が整っていないからだ、という一方的な押しつけだ。自分たちが収奪していることが一番の原因であることを棚に上げ、途上国側の構造を自分たちの考えに合うように変える事が途上国を発展させる、という非常に手前勝手な理屈である。ロストウはジョンソン政権で安全保障担当大統領補佐官を務めている。

通貨先物の誕生

更に、変動相場制は、通貨価値が変動すると言うことから、通貨先物という金融派生商品の先駆けとも言えるものを産み出した。それまでも先物は存在したが、それは基本的に商品先物であり、商品の現物があって、その将来の契約を事前に交わす、という方式なので、それでも問題はあるとは思うが、取引の安定性、継続性を考えれば理解できるものではあった。しかし、それが通貨という、発行も中央銀行次第である程度自由になり、価格に何らかの原価があるわけでもない、非常に不安定なものに対して設定されることで、その価値決定自体が強く思惑に左右されるようになった。そしてそれが、特に実需、つまり実際の取引契約なしに行われるようになったことで、投機家の力によって実体経済が大きく左右されるようになったのだ。

この動きのさきがけとして、かつてヴァイナーが教鞭をふるっており、自由市場至上主義のシカゴ学派が形成されたシカゴ大学のお膝元で世界最大の商品取引市場でもあったシカゴの商品取引所では、変動相場制への移行後すぐに為替先物が生まれ、為替市場形成の中心地となっていった。それはオイルショックの発生にも大きく関わったと考えられる。というのは、これまでは産油国で混乱が起きても、それは原油価格の変動に反映されるだけにとどまっていたのが、更に為替という要因が加わることによってその影響が増幅されるようになったからだ。これは結局有事のドル買いという言葉を生み出して、為替変動が起きる時には基軸通貨であるドルを買っておけば為替変動リスクを避けることができるというマインドを産み出した。これによって、アメリカは平時にはドルを切り下げて輸出を拡大し、荒れた時にはドル高になることでドル建て債権の回収で利益を確保するということが、理屈の上では可能になった。しかしながら、実際にはその利益は全て金融業界に吸収されるので、それは一般労働者階級にとっては余り関係のない、机上の空論による利益確保に過ぎなかった。いずれにしても、アメリカ金融業界はこれによって大きな利益の源泉を確保できるようになり、その最初の犠牲者となったのが、カナダでの大型石油プロジェクト契約締結直後に第四次中東戦争、そしてオイルショックがおきてそのまま経営破綻、吸収合併されてしまった安宅産業であり、また罪状が外為法違反であったロッキード事件もこの流れの中で捉えられるべき事件であると言える。

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