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【Lonely Wikipedia】露土戦争

何度も繰り返されてきた露土戦争。そのものずばりの露土戦争で呼ばれることの多い1877-78年のロシアとオスマン帝国の戦争に至るまでの流れについて見てみたい。

とは言っても、やはりなぜそもそもその対立が始まったのか、というところは見ておく必要がありそう。

その争いは16世紀にまで遡る。

元々両国の間にはジョチ・ウルスという、モンゴル帝国の一部を引き継いだ国が13世紀から15世紀にかけて存在した。
15世紀には、ジョチ・ウルスの地には、ヴォルガ中流のカザン・ハン国、カスピ海北岸のアストラハン・ハン国、クリミア半島のクリミア・ハン国が次々に勃興し、マンギト部族の形成した部族連合ノガイ・オルダや、大オルダと呼ばれるようになったサライを中心とするハン国正統の政権(黄金のオルド)などの諸勢力が興亡した。
一方、東方の旧青帳ハン国ではジョチの五男シバン(シャイバーン)の子孫がハンとして率いるウズベク族(シャイバーニー朝)と、オロスの子孫がハンとして率いるカザフ(カザフ・ハン国)の二大遊牧集団が形成され、南シベリアではシビル・ハン国が誕生した。

一方でロシアには、そのジュチ・ウルスの属国としてモスクワ大公国があった。モスクワ大公国は、元はノヴゴロド公国と呼ばれる、キエフ大公国から独立した国で、公国ながら民会(ヴェーチェ)による政治体制が整っており、共和制と言ってもよい国だったという。ノヴゴロドにはハンザ同盟の四大商館の一つが置かれ、商業の中心として賑わっていた。

一方、ノヴゴロド公国を作ったとみられるヴァリャーグ(ヴァイキング)の一部はさらに南下し、キエフ大公国と作ったとされる。そこでキリスト教の洗礼を受け、キエフ・ルーシはキリスト教化した。この後、キエフ・ルーシはずっと一つの王統が続くように記録されているが、実際にはヴァリャーグ系とスラヴ・ギリシャ系、そしてが最後の方にはモンゴル系が入れ替わったりしているように見える。このあたり、キエフ・ルーシというキリスト教国がモンゴル侵攻によって滅ぼされた、という話を作るために、後世に作られた感じはする。

キエフがその時にそこまで栄えていたのか、というもの疑問であり、いわゆるロシアの中心はずっとノヴゴロドであったように感じる。そしてそのノヴゴロド公として、ロシア、モスクワでは評価が高そうだが、ノヴゴロドの方ではそうでもなさそうなアレクサンドル・ネフスキーという人物とちょうど重なる時期に、モンゴルが襲来したとされる。そのころ、ネフスキーの父ヤロスラフ2世はモンゴルによってウラジーミル大公に任じられている。そしてキエフが廃墟となったとされた後、ネフスキーはジョチ・ウルス軍と共同してウラジーミル大公となっているようだ。父の死の不自然さもあわせて、どうもこのネフスキーというのがかなりの梟雄で、モンゴルの威を借りてルーシを混乱に陥れた張本人ではないかと考えられる。つまり、タタールのくびきとはつまり、このネフスキーがモンゴルに取り入ってルーシ諸都市を荒らし回ったことではないかと考えられるのだ。
彼は、ノヴゴロドでスウェーデン軍と戦った末にそこから追放されたと言うことで、ノヴゴロドがヴァリャーグ系を色濃く引いている中に、南からキリスト教の権威とモンゴルと武力の両方を纏ってノヴゴロドの征服にやってきたが、結局受け入れられなかったと言うことだと思われる。その後、ドイツ騎士団の襲来を怖れてノヴゴロドから彼を迎えに来て、そしてドイツ騎士団が攻めてきたのを彼が追い払って、それによって彼の系統がノヴゴロド公を兼ねたと言うが、それはおそらく事実ではないのでは、と感じられる。当時ドイツ騎士団がそこまで内陸に兵を出す余裕はなかったのでは、と感じるからだ。もしかしたら、その頃ノヴゴロドはもはや公国であることもやめ、完全合議制の共和政体に移っていたのかも知れない。そんなノヴゴロドは、後にネフスキーの子孫に当たるイヴァン3世によって1478年に滅ぼされる。おそらく、このイヴァン3世が、代々ノヴゴロドに権利を持っていたのだ、とするために、ネフスキー以降の歴史を書き換えた、もしくは新たに書いたのではないかと考えられる。いずれにしても、これによってロシア史上に輝く共和政体ノヴゴロドは滅亡してしまった。後世にマルクス主義者によって執拗なほどにその封建制が指摘されている事からも、マルクス主義にとっては乗り越えるべき大きな壁であったと言えそう。

モンゴルに勝利してタタールのくびきから逃れたこのイヴァン3世が、モスクワ大公のまま初めてツァーリを名乗り、その孫に当たるイヴァン4世が1547年にツァーリとして戴冠し、それからロシア・ツァーリ国と呼び始めたとするのが慣例のようだ。しかし、このあたり、婚姻関係も含めてかなりの脚色がありそうで、そのまま信じるわけにはいかなさそう。このイヴァン4世が1556年にカスピ海沿岸のアストラハン・ハン国を併合したことからオスマン帝国との長きに亘る争いが始まる。

一方のオスマン帝国は、1299年に建国されたトルコ系民族によるイスラム王朝である。ただし、宗教的には寛容であり、キリスト教国の方が遙かに宗教国家であったといえる。1326年頃までにはアナトリア半島を征服し、1346年には東ローマ帝国と同盟を結んでヨーロッパへの進出を果たした。その後1453年にはコンスタンティノープルを攻略し、東ローマ帝国を滅ぼした。1481年に没したメフメト2世の治世で、領土はバルカン半島のほぼ全域と黒海北岸まで広がった。そして、スレイマン1世(1520年 - 1566年)の時代には、領土は北アフリカから中欧ヨーロッパに至るまで広がり、最盛期を迎えた。

スレイマン1世は、アストラハン・ハン国を手に入れ、ドン川とヴォルガ川を結ぶ運河を開いて、黒海とカスピ海を船で行き来できるようにする、という壮大な計画を立てていたが、1566年に没してそれは次代のセリム2世に受け継がれた。それを受けて3代に亘って大宰相を務めたソコルル・メフメト・パシャがアストラハン・ハン国に兵を向けたのが第1回目の露土戦争となる。この派兵は失敗したとされるが、その直後にクリミア・ハン国がモスクワの急襲に成功していることなどからも、おそらく成功し、ソコルル・メフメト・パシャは運河の建設にも取りかかったのでは亡いだろうか。結局彼はその後ペルシャ人によって暗殺されてしまい、ペルシャはオスマン帝国からアゼルバイジャンなどカスピ海沿岸を手に入れることになるので、その辺りの関係でソコルル・メフメト・パシャの業績は矮小化され、ロシアの過大な事績の記録につながっているのではないだろうか。
その後100年ほどは両国に戦端は開かれなかったが、1676年以降は絶えることなく衝突し続け、エカチェリーナ2世が女帝となって以降はロシアが押し続けて、1783年にはクリミア・ハン国がロシアに併合され、黒海を挟んで直接対峙するようになっていた。この併合は、ロシアによる条約違反の結果であった。

そんな状態を引き継いで起きたのが1853年からのクリミア戦争だった。この背景として、ナポレオン戦争後のウィーン体制が1848年革命で崩壊し、それによるヨーロッパの混乱がバルカン半島に波及する中で、オスマン帝国のアブデュルメジト1世は内政改革に取り組んでいた。その最中に、フランスのナポレオン3世が、パレスティナに対する主権を求め、ロシアとの綱引きをする中で、アブデュルメジト1世が脅しと金に屈してフランスのカトリックの聖地に対する管理権を認めることになった。それに対して元々それを持っていたギリシャ正教の保護者であるロシアが怒ってオスマン帝国に戦争を仕掛けた、という、オスマン帝国にとってはとんだとばっちりとしか言えない話で戦争が始まったのだった。結局イギリスとフランスの助けを得て何とか勝利にこぎ着けたものの、オスマン帝国にとっては何ら得るものもない戦いだった。ロシア側ではニコライ1世が亡くなり、アレクサンドル2世は英仏との力の差を感じて改革に取り組んだ。

そして1877-78年にかけて再び露土戦争が起きた。この頃になると、もはやオスマン帝国は死に体だった。1875年には西欧発生の金融恐慌と農産物の不作の影響を受けた帝国は外債の利子支払い不能を宣言して、事実上破産した。1861年よりスルタンの位置にあったアブデュルアズィズは、1876年5月30日、改革派の支持を背景にしたクーデターの結果、憲政樹立をめざすミドハト・パシャらによって廃位された。ミドハト・パシャが委員長を務めた制憲委員会は、オスマン帝国憲法の草案を起草した。それは、76年12月23日に公布され、12月17日に大宰相に就任していたミドハト・パシャは第一次立憲制最初の大宰相となった。しかし、翌1877年2月5日にミドハト・パシャは憲法に定められた危険人物と断定され、大宰相を解任されて国外退去を命ぜられた。
翌1878年2月14日には憲法の定めた君主大権によって、露土戦争の最中であることを口実に非常事態宣言に基づく憲法の停止が命ぜられ、ミドハト・パシャの樹立した第一次立憲制はわずか1年2ヶ月で終焉させられた。そのように、国内政治が憲法がらみで乱れている間に、1876年、セルビアとモンテネグロはオスマン帝国に対し、宣戦を布告した。しかし両国はオスマン軍によって大きな打撃を受けて休戦を余儀なくされたうえ、同時期に起こったブルガリアにおける反オスマン反乱であるブルガリア人の四月蜂起も鎮圧された。1876年6月28日から7月8日にかけて、ロシアとオーストリア=ハンガリー帝国は、オスマン帝国分割の秘密協定、ライヒシュタット協定を締結した。
ロシア帝国は1877年4月24日(露暦4月12日)にオスマン帝国に宣戦布告した。戦いは終始ロシアペースで進み、1878年3月、ロシアの勝利で戦争は終わり、サン・ステファノ条約が結ばれた。

このように、ロシアとオスマン帝国の関係というのは、ほぼ一貫してロシアがオスマン帝国の領土を蚕食することで行われてきた。ロシアのバルト海、あるいは黒海に向けての不凍港を求めての動きというのは、本当に死にものぐるいの様子で、それがロシアという国の行動パターンになっているといってよさそう。そして、歴史書に書かれている内容、さらには南下の実態についても、事実よりもかなり盛って書いている印象が強く、ウラルを越えたシベリアについては更にそれがひどいと思われる。一方で、ロシア民族自体のベースとしてはノヴゴロドの共和制というものが非常に強く根付いていたようで、それが共産主義体制下でも合議制に基づく仕組を常に模索し続けたロシアのやり方につながっていくのだと考えられる。また、ソ連時代、コーカサスやウクライナの南方から人材を多く輩出しているが、それもジョチ・ウルス以来のモンゴルやオスマン帝国との交流の歴史から、広い視野を持った人物が育ったからではないかと考えられる。そんなことを頭に入れながら、ロシアの東方進出については実態をしっかり見定める必要がありそう。


Photo from Wikipedia 1970s

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