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広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(25)

明治八年会社条例草案

引き続き『日本会社立法の歴史的展開』についてみてみたい。第二章の「近代的会社法の出発」の要約と補足をしてゆきたい。

会社法成立に至るまで

前回の明治維新以降会社法成立以前の株式会社に関わる動きに続くこの時期には、官有物払い下げ事件などもあったので、社会の動きとの関わりが欠かせないと思うのだが、残念ながら、本書では、法律の形式論的なものに終始していて、どうにもその背景がわかりにくい。そのあたり、わかる範囲で補足してゆきながらまとめてゆきたい。
わが国最初の近代的・体系的商法典は、明治二十三(1890)年に公布された。明治十七(1884)年一月に脱稿した、ドイツ人ヘルマン・レースラー(ロエスレル)によって起草されたレースラー商法草案を基盤として作成されたこのいわゆる旧商法全体が施行されることはなかったが、会社法の部分は一部修正の上、手形法及び破産法と共に明治二十六(1893)年七月一日から施行されたという。
その過程とその間におきた出来事を比較しながら見てゆきたい。

内務省『会社条例』草案

明治八(1875)年、我が国最初の会社法編纂の試みだと言える、内務省による『会社条例』草案脱稿。
この会社条例については「明治八年・内務省『会社条例』草案 ー明治前期商法編纂史研究(三)ー」で、背景説明の上『大隈文書』による全文が紹介されている。それによると、明治八年五月に内務卿の大久保利通が太政大臣の三条実美に『会社条例』についての伺書を出したことで公式の議論に載ったようだ。その伺書の内容は、元々大蔵省の掌管だった会社関連の手続きについて、その取締方法を設けて弊害を匡救するために、咋明治七年四月中に上申したものを英国政府や其他の会社法則を参考にして出来上がったものについて伺いを立てたという。確かにこの伺書を出した当時の内務卿は大久保利通であるが、明治七年四月上申時にはおそらく木戸孝允が内務卿であったと思われ、さらに英国政府と出てくるが、英国法に一番拘っていたのは大隈重信であると考えられ、そうなると、この会社条例案には大久保はほとんど関わっておらず、内務官僚が先に司法省に独自で法案を出したことに対して大久保が太政大臣三条実美に伺いを立てることでその存在感を示そうとしたものではないかと考えられる。

会社条例布告案

それには布告案も添付されており、それによると一般の会社条例の布告の但書として、社長頭取其余重立候者の姓名を以て称号とする会社や組合は条例の管轄外だという内容で、明治八年五月、太政大臣三条実美名まで入れてある。これは、もうその月にこの会社条例が公布される可能性がかなり強まっており、それに対して大久保がこの但書だけはどうしても入れたくて、太政大臣三条に押し込んだ、という印象を受ける。実際、『大隈文書』中の草案にも、日付は空欄ながら明治八年という年は明示されており、明治八年中に公布、というのが、木戸や内務官僚、そしておそらく大隈も含めた会社条例先行派の総意であったのではないかと考えられる。この背景には、大阪会議を受けて佐賀の乱の後に下野していた木戸と板垣が政権に復帰しそれによって伺書に先立つ四月に『立憲政体の詔書』が出され、その中で元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言されたことがあるのではないかと考えられる。

司法省の動き

上記論文中で、明治七年四月という条例草案の上申時期について、司法省ではお雇い外国人ブスケを採用し、フランス商法講説の会を始めたのが同年九月で、内務省の方が数ヶ月先行しているということを指摘している。伺書の中で英国政府及び其他の会社法則と出ているのは、この司法省のフランス商法のことを指している可能性があり、つまり、内務省以外にも司法省でも調査を進めているのでそちらも参照するように、という意を含んでいるのではないかと思われる。元々司法省のこのフランス路線を推進していたのは、佐賀の乱で討たれた江藤新平であり、木戸はこの江藤の路線を意識して会社条例の草案を作り、上奏していた可能性があり、それが頓挫したので内務卿を辞任して下野したのだとも考えられる。そしてその木戸の後に内務卿に復帰したのが、佐賀の乱を自ら鎮圧するために内務卿をやめていた大久保で、つまり大久保と江藤の間に深い確執があったことが想像できる。そこにも、大久保がこの草案をそのまま公布することに前向きではなかったことが表れているのではないだろうか。

別子銅山

そして、江藤をまともな審議もせずに斬首と決めたのが権大判事河野敏鎌であった。この背景をもう少し考えてみると、江藤は司法卿の時に官有物払い下げなどで厳しい追求を行い、その中には井上馨が関わった尾去沢銅山に関わる汚職も含まれていた。それと同時期に、河野氏が代々勢力の地盤としてきた伊予にある松山藩所有ともされる別子銅山が、新政府に接収され、広瀬宰平が総理人としてその経営を担っていた。これは想像に過ぎないが、社長頭取其余重立候者の姓名を以て称号とする会社や組合は条例の管轄外という但書を考えると、もしかしたら、この銅山の名を承平天慶の乱の首謀者の一人とされる藤原純友の名を冠して法人化することでその名誉回復を図ろうとする動きがあったということにしてそれを防ぐことがこの条例の目的であると強調しようとしたのかもしれない。実際、別子銅山はもともと住友家のものだったとされるが、広瀬が住友家の墓所に葬られていることを含め、本当に住友家なるものがそれ以前から存在したかというのは、その後の住友家の当主のことを考えても、少し考える余地があるのかもしれない。もちろん、銅の採掘自体はそれ以前からなされていたのだろうが、それを守るために住友家なる架空の存在を作り出し、結果としてそれを具現化させたということも考えられるのかもしれない。その理由としては、河野氏というのは瀬戸内で水軍を率いていたともされ、その歴史観と藤原純友の復権というのが相入れなかった可能性もある。それを嫌って、自身は土佐藩出身として水軍の河野氏との直接の繋がりは不明とはいえ河野敏鎌と、河野氏が代々用いていた通の字を持つ大久保利通の佐賀の乱における行動の正当化が行われたのかもしれない。それを別子銅山の経営者が個人名での法人化を狙っていると話をすり替えることで、自らの私怨を鉱山権益の確保に結びつけたのかもしれない。つまり、佐賀の乱で江藤を葬ることで歴史観の固定化による支配の強化、鉱山権益の確保、さらにはフランス的大陸法の主導権確保という一石三鳥を図ったと言えるのかもしれない。

大蔵省

さて、上奏を受けた三条は、これを司法卿大木喬任に回付・諮問した。一方で大隈の大蔵省では、内務省から最初の条例草案が上申されたすぐ後の明治七年五月に会社条例取調掛が新置され、大久保の三条への上奏の後明治八年七月二日に本省に対して伺いを出している。大久保の上奏を受けて大蔵省での会社条例取調ではやうことがなくなってしまい、伺いを出したというところか。大隈は同年一月に三条宛に意見書を提出し、条約改正の実現と、間接税の重視と内需の拡大、官営事業の払い下げなどを主張しており、会社条例については距離を置いていたようにも見受けられる。それは、内務省に移管され、同じ肥前佐賀の出身で征韓論で袂をわかった法律に詳しい江藤による佐賀の乱と、内務卿となった木戸による会社条例の推進をうけ、さらに木戸の辞任後の対応として大蔵省に会社条例取調掛を置いた上で、大隈としては条約改正に軸足を移すことで外国法の翻訳に力を入れさせた、ということになるか。そこで内務官僚と内務卿大久保との路線対立が生じて会社条例取調掛自体どうするべきかわからなくなったというのがこの伺いの意味するところであろうか。

その後の会社条例草案

そんな混乱状態があったためか、会社条例については大久保の伺書提出後約一年なんの動きもなく、一年をへた明治九年五月から七月にかけて司法省と内務省の間で書簡のやりとりが残されているが、結局さらに半年を経た明治十年二月に法制局から大臣らに向けて出された書簡において、その条例案が「社員の姓名を以て社号と為さしめさる所の無名会社のみに関し合名会社差金会社等の一般の会社の条例にはあらず」として一般法としての修正を求めるところで動きがわからなくなる。

合名会社
ここで条例案の中身を少し見てみたい。「社員の姓名を以て社号と為す可からず」というのは、条文の中ではなく、前文にあたるような部分に書かれている。その背景を考えると、合名会社とは一体なんなのか、というところに突き当たる。
合名会社の起源は中世ヨーロッパのコンパーニア (compagnia) にあるとされる。コンパーニアは、12 - 13世紀以降、イタリアとフランドル間などヨーロッパ各地の市場を結ぶ内陸交易の発達に伴って出現した。コンパーニアは、ある家族が機能資本家として複数世代にわたって同一の名称を用いて活動するために生まれた家族的な事業団体が家族以外の者を含む形で発展したものである。これはそれまでの企業形態とは異なり、企業としての継続性を有していたのが特徴である。コンパーニアは存続期間を定めて社員の出資によって設立され、その社員は第三者に対して無限連帯責任を負担した。コンパニーアは、社員による出資のほか、有利子の預金によっても資金調達を行った。14世紀のフィレンツェには、ヨーロッパ各地に支店を設け、交易のほかにも、為替や、君主・諸侯などへの貸付けを行うようなものも登場した。また、16世紀の南ドイツにおいても、フッガー家などが同様の企業形態を有していた。
合名会社についての最初の立法例は、フランス王国の1673年の商事勅令 (l'Ordonnance de Colbert de 1673 sur le commerce) であるといわれている。その後、ナポレオン法典(1807年の商法典)等の大陸諸国の商法典に規定されるようになり、日本では商法制定時にドイツ商法典に倣って導入された。
法人格を有するか否かは立法例によって異なるが、ドイツ、ベルギー、スイス、ポーランドの合名会社は法人格がないのに対し、日本やフランス、ルクセンブルク、ノルウェー、チェコ、スウェーデンの合名会社は法人格を有する。
イングランドでは、コンパーニアに相当する企業形態はパートナーシップ(あるいはジェネラル・パートナーシップ)と呼ばれており(カンパニー (company) ではない。)、これは法人格を有しない。これは現在でも英米法の各法域でよく用いられているが、法域によってはパートナーとは区別された法的実体 (legal entity) であるとされている。尚、他にもイギリスにおいては、無限責任の法人として無限責任会社 (unlimited company) が設けられたが、こちらは現在では、日本の合名会社と同様にあまり利用されていない。
創業の古い、同族経営を前提とした地域の零細企業がしばしば合名会社の形態であり、業種的には酒や醤油・味噌などの醸造会社、離島などの僻地において交通インフラの供給を担う企業(海運会社、タクシー会社)などに多く見られるようである。なお、戦前には三井財閥の持株会社であった三井合名会社や安田財閥における合名会社安田保善社、古河財閥における古河合名会社のように、財閥一家による株式所有の方法としていた例もある。

Wikipedia | 合名会社

つまり、合名会社とは世襲的同族経営を行うような企業が取る形態であり、ドイツをはじめ法人格を有さない国が多くあり、会社条例がモデルとした英国においても基本的には法人格を有しないようだ。それが日本では結局法人格を有するような形で会社法ができたためか、戦前では財閥家による持株会社の法人形態に多く用いられたとある。元の条例案では、そのような法人は認めない、ということだったのに、結局それが骨抜きにされて財閥形成の元になったのだと言えそう。

的外れな会社条例への評価

条文の本文を見ると、合名会社に関わる規定は記載されており、法制局の見解は、少なくとも『大隈文書』中の会社条例案に対する批判としては全く的外れであることがわかる。もう一つの差金会社というものの意味が、調査が行き届かずによくわからなかったが、仮に姓名を社号にするべからずのあと出てくる「社員の権利は其所出の金高に応ずるに非ざれば決して差等を立つべからず」という部分に関するのだとすると、それはこの会社条例案の大きな特徴である保証有限会社という社員に保証金を負担させることで、その責任の限度をその額までに収め、そしてその額の合計が全株式額面の過半数以上を為すことを求めるというあり方を否定することになる。さらにはそこには世人の委託を受け信任を主として営むべき業態の会社は必ず倍数以上たるべしと、金融業に関わるような規定もなされており、法制局の一般の会社向けではない、という見解は、その前段階の質問で保証金が必要ないと言っていることも含め、全くその仕組みが理解できていないのか、あるいは悪意ある曲解をしているのか、いずれにしてもこの非常に先進的な会社条例への評価としてはあまりに残念なものであるとしか言えない。

草案お蔵入りによる損失

結局このやりとりに前後して、三井銀行と三井物産ができ、そして住友では住友家第十二代家長・吉左衛門友親は、病気のため広瀬宰平を総理代人に指名した。これらの成立以前にこの会社条例が通っていれば、そこで働く従業員の立場はずっと強いものになっていたことが想像できる。それは日本の近代化過程を全く違うものにしたかもしれないことを考えると、この会社条例に日の目を見させなかったことは非常に大きな損失であったと言わざるを得ない。

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