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続・広島から顧みる歴史、広島から臨む未来(2)

備後福山1

備後地方の中心都市、福山市。駅を降りてすぐに聳える10万石には似つかわしくないほどの立派な天守を構えた福山城。草戸千軒という中世都市の流れを汲み(?)、南には瀬戸内随一の港で、一時期は室町幕府がその居を構えた鞆へとつながるなど、歴史的な要素には事欠かない街ではあるが、見てみると様々な違和感が去来する。結局その違和感のためか、あまり街を見て回ろうという気持ちにもならず、城とその隣の博物館だけを見て終わりにしてしまったので、それで一体何がわかるのか、と言われたら、その通りなのだが、期待が大きかっただけにその違和感とのギャップは埋め難かった。

福山城

その大きな原因となった福山城について見てみたい。最後の近世城郭とも呼ばれるこの城は、水野勝成が藩主となって福山入りした元和年間に築城された。つまり、もはや戦国の世も終わり、大坂の陣すらも終わった後に築城されたことになる。地理的に見て、確かに現在も新幹線や在来線、そして重要な枝線の起点ともなっており備後地方の中心であるという見方は否定できない。しかしながら、中近世からそのような重要性で捉えられていたのならば、中世以前の何らかの城郭遺構があってもおかしくないと思うのだが、そういったものはどうも見当たらないようだ。実は、広島城にしてもその築城は戦国末期というよりもすでに西国では戦乱がほぼ治った安土桃山時代であり、その意味で中国地方の戦国時代にはそれほど目立った大きな城というものは存在しなかったとも言えそう。そして、広島にしろ、福山にしろ、戦国時代の戦の話すらもほとんどないということで、果たして広島に戦国時代なるものはあったのだろうか、という大きな疑問が浮かび上がる。皮肉なことに、戦国時代が終わり、太平の世ともされる秀吉や徳川の時代が来てから、その支配を固めるためかのように巨大城郭がつくられ始めた、とも言えそうなのだ。

近代城郭の可能性

もっと言えば、広島城は毛利輝元が築城し、その後福島正則が無断改築して改易のきっかけとなったとされるいわく付の城であるが、原爆投下によって消失し、現在のものは再建されたものになる。一方で、福山は、それだけ立派な城を構えていながら、明治後に広島県内で市制を導入したのが尾道、呉に次いで四番目であったということで、備後の中心地としては10万石の藩庁を持つ福山ではなく、尾道の方が遥かに存在感を持っていたことになる。果たしてそこに、本当に戦前には国宝ともなっていたとされる巨城が存在したのであろうか。もっともその国宝だった福山城自体戦時中の奇しくも長崎原爆投下の前日であった福山空襲で焼け落ちており、現在のものは再建されたものである。この二つの城は、果たして江戸時代から存在したものなのだろうか。江戸時代までの広島の中心地は廿日市だったのではないかという議論はすでに行なった。広島に城を作るのだとしたら、もしかしたら広島に鎮台が置かれた時ではなかっただろうか。そして、福山に城を作るとしたら、日清戦争で大本営が広島に置かれた時の東の備えとしてだったのではないだろうか。つまり、どちらも近世城郭どころか近代城郭だったという可能性はないだろうか。

南北朝の混乱につけ込んださまざまな可能性

なお、福山市にある神辺城では大内・毛利と山名氏が長期にわたって戦ったことになっているが、同時代に近いと考えられる『棚守顕房覚書』にはその記述はない。山名氏というのは文脈的には『難太平記』を支持する勢力であると考えられ、実際の戦いというよりも『太平記』の解釈をめぐる、南北朝時代の認識対立だと考えた方が良いのではないかと感じる。また、前回述べた通り、福山城という城は備中国の今の総社市にあり、それは『太平記』にも書かれた福山合戦の舞台ともなっている。それを知りつつ備後の国に同じ名の城を作るというのは、備後国を何処かの段階で備中国に切り替えてしまおうという遠謀深慮があった可能性もありそう。実際備前と備中の一宮である吉備津彦神社と吉備津神社は山を挟んですぐ近くにあり、それが別の国だという方がどこか奇妙に感じる。これは、吉備国の西方拡大計画の一環で、備後を備中にしたら、その次は安芸、つまり広島を備後にしようと考えていたのかもしれない。

歴史観構築の留意点

福山城についてそんなことを考えたのは、歴代の福山藩主というのが、明治以降に行われた江戸時代の歴史観構築の副産物のように見えてしまうからだ。ここで気をつけたいのは、歴史というのは常に事後的にしか解釈し得ない、ということだ。今のようにマスメディアが発達した時代であっても、流れとしての歴史を追うには事後的にさまざまな出来事を振り返ることによってしかできない。ましてや、明治維新という大変革があり、あちこちでさまざまな事件が起きているという話だけが飛び交っている中、幕末に一体何があったのか、そしてそれは江戸時代の初めからどのような繋がりでそういうことになったのか、ということをまとめてゆくのは何らかの情報整理の結果でしかあり得ず、そしてその役割を各藩の支配者であったと称する藩主家が主導して行う時、その検証はいかにして可能なのか、という問題は常に発生する、ということだ。だから、明治時代以降に江戸時代の話が次第に構築され、それによって歴史観が定まってゆくという、事後的な歴史観構築プロセスというものを意識しないと、その時々に実際に何があったのか、ということはなかなか理解しづらくなる。誰もが主観的見方しかできないという認識限界がある時には、書かれたこと、言われていることが全て真実であると考える方が、真実を見誤る可能性が高くなるということには留意すべきだろう。

福山藩水野家

さて、福山藩初代の水野勝成という人物は、徳川家康の母方の従兄弟、つまり水野信元の娘である於大の方の甥に当たるが、織田氏との繋がりの深い水野氏であるということで、織田と徳川を結びつける重要な役割を担うことになる。勝成にまつわるさまざまな逸話は、一体どこまで信じられるのか、という内容の話が多く、実在性よりも、一時期小田県であった福山地方において織田と徳川、さらに言えば大活躍した大坂の陣を経由して、豊臣も含めたいわゆる三英傑を結びつける、という目的のためにさまざまな逸話と共にその人物像が形成されたのではないかと感じられる。

奥平松平忠雅

水野家は五代で断絶し、続いて松平忠雅が藩主となる。松平忠雅は奥平松平家で、奥平氏は織田と徳川を強く結びつける長篠・設楽が原の合戦で長篠城主として重要な役割を演じている。こちらも小田県という名であった時の歴史認識形成に大きな役割を果たした可能性がある。

阿部氏

その後、幕末まで藩主を務めるのが阿部氏となる。阿部氏については別に書いたので繰り返すことはしないが、この阿部氏で著名なのが、幕末の安政の改革を担った第七代藩主阿部正弘だ。阿部正弘は、日米和親条約を締結した時の老中として知られる。日米和親条約自体についての議論は別にしたが、とにかくこれは日本と欧米との初めての外交関係の樹立であると言える。そこでこの福山藩主の阿部正弘がその役割を担うというのは一体どういうことなのだろうか。

攘夷と開国

まず、前回書いたように、福山は津和野と並んで外来神と目される神を祀った神社が著名である。そして、これも前回書いた通り、第二次長州征伐で福山藩は石州口で長州と矛を交えている。新式銃を装備した大村益次郎率いる長州軍に撃ち破られた幕府軍には浜田藩と津和野藩も参加していた。その間にある今の益田市にはなぜか藩が存在せず、前記二藩によって分割統治されていた。いずれにしても、攘夷を主張する長州藩に新式銃があり、開国を主導した福山藩を含む幕府軍にそれがないというのも妙な話である。ここから得られる示唆は、まず攘夷派と開国派で攘夷派が勝ったということは、日米和親条約のような公式な条約締結についてはこの段階ではなかったということ、にも関わらず攘夷派の長州が新式銃を備えていたということは、条約なくしても交易はなされていたということが考えられる。

益田氏

ここで注目したいのが、大村益次郎にも使われている益の字を用いた益田市域を拠点としていたとされる益田氏だ。旧幕時代にも、浜田藩では竹島を経由して密貿易が行われていたということもあり、海外交易は誰かが担ってやっていたのだと思われる。益田氏と言えば、島原の乱での天草四郎、すなわち益田四郎時貞の名が浮かぶ。つまり、益田氏は何らかの形でキリスト教と繋がりを持っていた可能性があり、それを経由して海外交易をいち早く行っていたとも考えられる。益田氏と言えば三井物産の創始者とされる益田孝が知られる。しかしながら、益田から三井物産という名につながるのにはなかなか距離がある。そこで三井について考えてみると、元寇の時の長門探題に三井(みい)氏がいたとされる。みいといえば、天台宗寺門派総本山近江園城寺の別名三井寺が思い浮かぶ。そして近江からは源氏の新羅三郎義光が出て、そこから甲斐源氏の雄武田氏へとつながることになる。武田氏は甲斐国で知られるが、安芸国にもいて、毛利氏を取り巻く安芸の戦国時代を彩っている。

大河内と真田の両信綱

一方で、天草四郎に戻ると、島原の乱を最終的に鎮圧したのは知恵伊豆こと大河内松平信綱である。ここはなかなか直接的なつながりは見出し難いが、まず維新後に復姓して大河内氏となったその後継正敏は、理化学研究所の所長を務めている。一方で、信綱という名からは、甲斐武田二十四将にも含まれる真田信綱を連想することができそう。信綱は関ヶ原の合戦前に上杉征伐に向かった徳川軍の別働隊の秀忠軍を信州上田城で足止めした昌幸の兄、大坂の陣で知られる幸村(信繁)の伯父で、昌幸、信繁の親子は関ヶ原合戦の後には紀州九度山に配流され、紀州の領主浅野氏の監視下で過ごしていたが、昌幸没後に起きた大坂の陣で信繁は九度山を抜け出して大坂城入りし、真田丸と呼ばれる出丸に篭って奮戦するが、夏の陣で討ち死にしている。浅野氏は、直接的にはつながらないとは言え、戦前には浅野財閥という大コンツェルンを作り上げ、日本の近代化を主導している。

武田氏と真田氏

小田原の話が元々小田県で作られたものだとすると、その後北条氏の盟友である武田氏も、東国甲斐に本当にいたのか、ということが怪しくなってくる。つまり、安芸武田氏の方が元にあった話で、そこから甲斐や若狭など他の武田氏に変形拡散していったと考えることもできるのではないだろうか。その時に、果たして真田氏というのがどこまで実態があったのか、という事になるが、甲斐の武将が多くを占める二十四将において、信州上田城を拠点とする真田氏が名を連ねているという事自体大きな疑念を抱かせる。武田が信州佐久方面にまで進出したのは信玄の時代になってからであり、その間にもそれほど大きく名を残しているとは言い難い真田がなぜ二十四将に名を連ねているのか、という問題自体、武田氏の謎に迫るのに大きな手がかりを与えていると言えるが、ここでは武田よりも信綱繋がりの方に迫ってみたい。私は、真田の話はおそらく大坂の陣の話が先にできたのでは、と推測している。真田や、土佐の領主で本能寺の変の時に信長の攻撃対象となっていた長宗我部、宇喜多秀家の家臣でキリシタンである明石全登といった戦国時代末期のさまざまな話を、大坂の陣の話で一気に片付けてしまおうという動きが出てきたのではないかと考えられる。

三井と大坂の陣

時期的には、大坂の陣の話が展開したのがおそらく三井に福沢諭吉の肝入りで中上川彦次郎が迎えられ、益田の三井物産もその指揮下に置かれた日清戦争前後のことではないかと考えられる。中上川は、益田孝の上司とも言え、三井の番頭などと呼ばれて三井に便宜を図ったともされる井上馨が福沢に要請して三井に迎えられたともされる。
長州出身の井上馨はもしかしたら長門探題の三井氏と三井家とを意図的に繋げた可能性もある。長門探題の三井氏は資の字を用いており、それは藤原氏の小野宮流実資にも通じる。明治維新後の銀行創設の時に小野組と三井が共同して最初の銀行を作ろうとしたが、小野組の破綻で結局三井の単独出資となったという話があり、その時新政府首脳が岩倉使節団で外遊していた中大蔵省を仕切っていたのが井上馨であった。また益田が中心となって買収した三井三池炭鉱は元々柳河藩家老の小野春信が採鉱を始めたとの話もあり、小野という姓を絡めることで三井、とりわけ益田孝の締め付けを行なっていたのが井上馨なのではないかと想像される。
日清戦争では、広島に大本営が移される、ということもあり、広島を中心にしてなんらかの動きがあったと考えられる。そして、それと連動して大坂の陣の話が動いていたとすると、いわゆる新政府の大坂への進出というのもこの時期であったのかもしれない。そしてそれは、本能寺の変を中心として、信長と家康を軸に話を進めていた大久保系の『三河物語』の路線から、そこに秀吉が加わる『家忠日記』の路線への切り替えがなされたのと同期していたのではないかと考えられる。

少し長くなったので一旦ここで切りとする。

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