労働価値説と市場メカニズムの接続

スミス的市場の限界についてみたが、それをいかに克服しうるのだろうか。スミス的市場の限界は、労働価値説と市場メカニズムの接続がうまく行っていない、ということにあった。これを解決するには、まず、その接続部分、インターフェースについて考えること、ついで価値の源泉を労働価値に求めて良いのかということを考えること、そして市場メカニズムが商人主導のあえて言えば功利主義的なメカニズムで作用することが良いのか、ということを考えることが必要なのではないかと考えられる。

労働価値説の実現可能性

ではまず、最も現実的で、即席的なインターフェース部分について考えてみたい。すでに述べたとおり、労働価値を貨幣に直接換算するためには、労働と同時に貨幣価値が実現しないと、財市場と同等の意味での市場原理は機能しない。つまり、労働価値の実現プロセスが迂遠であり、その隙間部分で矛盾が発生し、それが資本家による搾取や商人による鞘取りにつながってゆくのだと考えられる。これを解決するのは現実的には全く容易ではない。金の流れは財の流れと交換で起こるわけで、財が動かなければ労働者に払う金は出てこない。つまり、労働価値説は、理念的にはともかく、現実的にはリアルタイムでセイの法則が成り立たない限り、論理的にほとんど実現不可能であると言えるのだ。この部分は次項でさらに深める必要がある。

自然価格と市場価格

とにかく論理的にほぼ不可能な労働価値説を近似的にでも作用させるためにはどうしたらよいだろうか。そのためには、リカード的な自然価格と市場価格の概念をうまく市場原理に組み込む必要があるのではないだろうか。とは言っても、文字通り市場原理は市場価格で動くわけであり、今更それを組み込むも何もない、ということになってしまう。つまり、自然価格は理念としては存在するけど、現実は市場価格で動きますよ、というのが、古典派経済学の行きついた市場の解釈であると言えそうで、それが市場原理主義的な考えの根本となっているのではないかと考えられる。

労働価値説と市場原理

だから、ここで見捨てられてしまった自然価格について何とかする必要が出てくるわけだ。しかし、生活必需品の価格である自然価格を市場価格にアプリオリに組み込んでしまえば、それは原理的に、付加価値分が常に物価上昇圧力となって少し遅れて自然価格に常に付け加わるという、インフレがビルトインされた世界になってしまう。常に物価上昇圧力がかかれば、価格のシグナリング機能が失われ、今度は市場原理がうまく機能しなくなってしまう。つまり、自然価格と市場価格はトレードオフ、というか、あっちを立てればこっちが立たず、という関係にあるわけで、そうなるとスミスの矛盾、つまり労働価値説と市場原理の組み合わせというのは原理的に不可能であるということになってしまう。それを解決するためには、労働価値説と市場原理を切り離す、つまり、自然価格を市場価格とは独立で定義する必要が出てくることになる。これはすなわち、労働価値を市場原理の枠外で表現するしかないことになる。

市場化できる労働とできない労働

これを考えるには、労働とは一体何なのか、という非常に難しい問題を解決しないといけないことになるが、そのことについて一般的な解釈が成立しうるとは、私には到底思えない。そこで、私は、もう、生きていることが労働である、と定義してしまえば良いのでは、ということを提案したい。そして、それがベーシック・インカムの理論的根拠となるのではないか、と考える。そうなると、怠け者云々の話が出てくるだろうから、労働の基本部分は、生きて、食べ物を食べ、必要最低限(これはできる限りどんどん広がってゆくのが良いと考えるが、)の生活をする、ということとし、それ以外の付加価値労働については市場原理に付して、市場価格で取引する、ということとすれば、もっと金を稼ぎたかったらどんどん労働する、ということも十分に正当化されることになる。そして、仮に付加価値労働がなければ必要最低限の水準はどんどん切り下がるわけで、そうなると逆に必要最低限に含まれない、市場の範囲が拡大して、付加価値労働の可能性が増す、という市場と市場外との”市場原理”(!)も機能するようになると考えられる。

生活必需品価格とベーシックインカム

要するに、ベーシックインカムを導入しないと、スミス的な市場原理は機能しないのではないか、という提言であるが、果たしてそれだけで機能しうるのか、という問題はある。つまり、自然価格は場所によって異なり、都市部と農村部では明らかに都市部の方が物価が高くなる。都市部に付加価値労働を集約するという考えは、自然価格の地域差部分を市場価格がいわば搾取し、都市部での生活水準向上を優先させることを正当化させうる。そしてそれによって起こる市場価格の上昇に伴う全体的な物価上昇は全国に波及する。それは、食糧生産が農村部でなされることを考えると、明確に都市部のただのりであると考えざるを得ず、食糧生産にディスインセンティブをかけることはベーシックインカムの成り立ち自体を危うくする。

食糧自給によるシステム的BI財源確保

そこで、地域ごとに少なくとも食糧自給の仕組みは成立させる必要が出てくる。そこで、特に食糧生産地においては、もちろん品質確保は当然のことだが、例えば古米・古古米といった時間のたった生産品や規格外の商品など市場に乗りにくいような生産品を自然価格の範囲内で、当該地域内でのみ流通する地域通貨的なものによって販売しないといけない、そして、域内で生活する人は、一定時間の農業、あるいは必需品流通の仕事に携わる必要があり、それによって地域通貨を得られる、などとして、域内での自然価格の安定を図る必要がありそうだ。それによって地域ごとの食料自給率を自然価格差に反映させて、その価格が安定しているところに付加価値労働が集まるようにしてゆかないと、ベーシックインカムの財源論を含めてうまく機能してゆかないのでは、と考えられる。

展望なき集権制度

まだまだ、その必需品の人件費以外の流通コスト等の負担をどうするのか、といった財源周りに関わる問題は解決しないといけないと思うが、少なくとも国家が主導して行う集権的なあり方よりも、地域ごとに知恵を絞ってゆくやり方の方が、はるかにコストパフォーマンスも良いであろうということは想像できる。

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