広島文脈の結晶・宏池会の源流1

広島の複雑な文脈を引き受け、それを原動力として戦後政治の軸となり続けた自民党宏池会について見てみたい。

まず、宏池会という名であるが、後漢の学者馬融の『広成頌』から、陽明学者安岡正篤が命名したものだとされる。安岡正篤については、京都八坂神社の社家と同族である堀田氏の出身ということで、平曲八坂流の『平家物語』と少なからず関わるのだと考えられる。一方馬融というのは、非常にわかりにくい人選であるが、まず後漢期の人物であるということで、『後漢書』というもの自体後の時代の『三国志』よりも後に書かれた、信頼性の劣るものであるということがまず指摘できる。その上で、馬氏は後漢二代目の明帝の皇后を輩出した家となる。細かな議論は省くが、明帝は光武帝の元の皇后が廃されたことで皇太子になった人物であり、後漢自体の正統性の上に、この二代目の正統性というのもかなり怪しいということが言え、そして馬氏の正統性はその取って代わった皇太后の正統性に依存しているのだと言える。『漢書』をその作者班固の一族である班昭に学んだ馬融による『広成頌』は、時の太后に対して出されたもので、それによって太后の不興を買ったという。その具体的中身を吟味する余裕はないが、おそらく太后に対して前漢からの継続性、そして明帝の正統性を諭すようなものだったのではないかと想像される。馬融はその後も権力者に阿ったり却られたりしたとし、もっともらしいことを言っては権力に近づき、そして自分の正しさを押し付ける、というようなことを繰り返した人物ではないかと想像される。それはまさに『平家物語』の正しさをそれとなく押し付け続けるというやり方と通じるものがあるのだろう。そして宏池には広島の広と池田勇人の池が込められているのだという。広島については『平家物語』にも絡んですでにみた通りだが、ここでは池田勇人の池の方についてみてみたい。

池は、前史を辿れば非常に長くなってしまうので、前回出てきた池大納言頼盛のところから見ることとする。平忠盛と後に池禅尼と呼ばれるようになった藤原宗子との間に生まれたとされる頼盛は、池禅尼が平治の乱で捕らえられた頼朝の命乞いをして伊豆への遠流に変えた恩人の息子だということで、平家滅亡後も一人生き延び、平家没官領を還付されてそれが後に村上源氏久我家に渡る。また、越後池氏というのが頼盛の流れを汲むと伝わる。久我家に渡ったときの由来であるが、当主が後妻に所領をほとんど与えたために嫡男との間で相続争いが発生し、後妻側が西園寺家に所領を譲って庇護を求め、その代わりに池大納言の平家没官領が後妻側のものになったということになっている。ここでは細かな議論はしないが、これは、久我家を源氏長者として関東の土地を全て管理下におかせるための策略であると考えられ、そして池大納言の平家没官領については西園寺が後ろ盾となってそれを保証する、ということだと言える。まさにその平家没官領が「池田」であると言えるのだろう。

それをおさえた上で、池田勇人についてみてみたい。全般的にWikipediaに依拠しているので、特に政治絡みということで、その信頼性には疑問符がつくということを先に述べておきたい。池田勇人は、明治32己亥年(1899年)12月3日広島県豊田郡吉名村(現・竹原市)出身だという。豊田郡とは前回見た通り、旧沼田郡を吸収してできた郡であり、その成立過程、誰がどのように作り、それを誰が記録したことで定着したのか、ということは精査する価値がありそうだが、今の私にはそこまでの余裕はない。

京都帝国大学法学部卒業後、大蔵省に入省して2年後昭和2丁卯年(1927年)、池田に大蔵省を紹介し当時田中内閣で逓信大臣となったばかりの望月圭介の、秘書だった宮澤裕に勧められ維新の元勲・広沢真臣の孫・直子と結婚したという。宮澤裕は宮澤喜一の父親である。広沢真臣は、維新の元勲ともされるが、それほど目立った業績があるわけでもなく維新後すぐに没している。その名は松平春嶽の『逸事史補』に出ているとされるが、自筆とされるこの書物が本当に本人の筆なのか、私にはわからない(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-320941-0) (https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E6%9D%BE%E5%B9%B3+%E6%85%B6%E6%B0%B8+)。となると、明治43庚戌年(1910年)に出版されたとされる『維新百傑』が初見である可能性もある。直子は真臣の子とされる金次郎の娘とされるが、この金次郎なる人物、真臣が殺害された7ヶ月後に長門国で生まれたとされ、数え8歳で慶應義塾幼稚舎に入っているという。その後数え14歳で伯爵となり、明治30丁酉年(1897年)36歳で貴族院議員になったということで、広沢真臣とはこの金次郎なる人物の箔付けのために作られた人物であるのではないかと疑われる。そして、広沢といえば、京都嵯峨に広沢池という池があり、成田不動で知られる成田山新勝寺を開いた寛朝という僧が遍照寺という寺を作るときに掘った池だという。成田不動は平将門の調伏のために寛朝が持っていった空海作の不動明王像を祀るために開かれたもので、一方池というのは西園寺のところで出てきた池大納言平頼盛につながる。つまり、東国で反乱を起こした平氏を調伏した空海作の不動明王像を持って行った僧が開いたありがたい池が広沢池であり、その池の荘園である池田、という意味が込められているのではないかと考えられる。そうなると、広沢真臣という人物は、作られた時点から池田と関わるよう設定されていた疑いがある。

ちなみにその時期に他の池田姓の人物がどうしていたかというと、三井銀行の池田成彬は、明治28乙未年(1895年)にハーバード留学から帰国し、三井銀行に就職しており、そうするとこの池田成彬が広沢金次郎という人物をつくり、そこから遡って真臣という人物も作り上げた可能性がある。また、まさに池田勇人が結婚したとされるその年に、三井銀行に勤めていた池田成彬が、鈴木商店に融資していた台湾銀行へのコール資金の貸し付けを絞ったことで鈴木商店を破綻させて昭和恐慌の引き金を引いている。一方その結婚の翌年には創価学会を大きく拡大させた池田大作が生まれている。なお、創価学会の初代、第二代会長の牧口常三郎、戸田城聖はその同じ年に日蓮正宗に入信している。

さて、池田勇人は結婚直後に病気となり、大蔵省休職を経て退職し、3年間療養に入ったという。結婚した直子はその療養中に亡くなったとされる。ここまでのところ、池田勇人の経歴についてWikipedia情報に依拠しているので、真偽の程はわからないが、その情報を流れるままにしている時点で、もし事実ならば池田勇人が明らかに過去の複雑な文脈を意図的に利用しようとしていたこと、事実でないならば現在進行でそれを利用しようとしているものがいることは明らかであろう。

ひとまずこれを頭に入れた上で、とにかく池というのはこのように複雑極まりない前史を持っているので、その文脈に由来するオーラのようなものに引きずられることなくその個々人が何をやったか、ということに注目すべきなのだろう。

池田勇人は、終戦後、昭和22丁亥年(1947年)2月、第1次吉田内閣(大蔵大臣・石橋湛山)の下、大蔵次官となる。昭和24己丑年(1949年)の第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬し当選。以後7回全てトップ当選する。池田は当選1回で第3次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢され、大蔵大臣秘書官として宮澤喜一と大平正芳を起用し、周辺を完全に大蔵官僚で固めた。その年、ジョゼフ・ドッジが来日し、ドッジ・ラインによる緊縮財政が展開された。ドッジは特に公務員の大量解雇による人件費削減を池田に強く指示し、これを実行したため、ドッジと池田に非難が集中、政党、労働組合、産業界、特に中小企業からの集中砲火にさらされたという。その発言からも、池田勇人が中小企業を軽視していたことは明らかで、ドッジの名にかこつけて大企業中心の戦後経済の骨格を作ったのは、池田勇人であったと言えるだろう。また、米価引き上げで国際水準に合わせる、との発言をしているが、経済原則としては比較優位の原則に反することであり、歴史的にも米価の値上がりが社会の混乱につながってきたことは明らかで、それを人為的に行うということで、経済にも歴史にも無知なことを曝け出していると言える。金融収縮でデフレを起こし、米価値上げでインフレにするなどという力技で、政府にとって管理のしやすい大企業中心の経済を作り上げたことが、今になって金融政策が全く効かない状態につながっているのではないだろうか。経済を人為的にコントロールしようとしたことのツケが回っているともいえそう。

また、池田は輸出志向で重化学工業路線を取ったが、戦前の日本最大の輸出品目生糸を潰しておいて、あるいは価格競争力のあった米からわざわざその競争力を失わせた上で、貴重な外貨を注ぎ込んで輸入がなければ成り立たない重化学工業路線を取ったことについては、特に宏池会としてはそれをどう評価するのか、しっかりと総括する必要があるのだろう。なお、輸出志向としながらも、池田が経済政策を主導した時期はほぼ例外なく輸入が大幅に拡大している。そして輸出額が輸入額を上回ったのは皮肉なことに池田が没した翌年の1965年のことだった(財務省貿易統計 年別輸出入総額(確定値))。この辺り、池田の得意としていた数字によって池田を評価するのが、本人にとっても本望であろう。

池田勇人の成果とされるものの中に、長期信用銀行法を成立させたことが挙げられるが、これは基本的には興銀が大蔵省の意図に反して普通銀行転換せずに金融債を発行したので、それをなんとか管理下に収めたいとして行われたことだといえ、そして興銀のライバルとするために長銀を作り、宏池会はそこと深い関係を持ったということになるのだろう。皮肉なことに、長銀が長信銀から離れて投資銀行的になってその頂点を迎えた頃にバブルが崩壊し、結局長銀破綻へ向かったということが言えるだろう。長信銀の本質であった金融債の力を最後まで捉えることのできなかった宏池会はどこまで行っても経済音痴であると言わざるを得ない。

池田勇人の政策評価となると大変なことになってくるので、とりあえずはここまでにしておくが、その目玉であった所得倍増は、ほぼ内需、しかも金融債による金融拡張によるものがかなり大きかったということは注記しておく必要があるだろう。池田のやったことは、その成果が財政によるものであると見せかけ、のちの田中政治への基礎をしいた、ということだと、私は評価する。それは、宏池会の伝統であるケインズ的財政政策そのものであり、実際にはそれが経済政策として機能したことは日本経済史上においてほとんどなく、民間の頑張りを政府の成果とするためのレトリックとして池田勇人が使い始めた、ということではないだろうか。宏池会はその点をどう考えるのか、ということを確認しないと、いくら「新しい資本主義」を標榜したところで経済政策で成果を出すことはできないだろう。うまく行ったとしても、それは結局民間の努力を財政政策のおかげだ、と言い換える伝統に則るのならば、とてもではないが民間経済からの信用は得られまい。

広島文脈に関わる部分はあまりできなかったが、とりあえず宏池会の祖である池田勇人を中心に見てみた。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。