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国際金融制度改革の必要性6 ー オイルショックの構造と帰結

2. デリバティブの急拡大

こうした背景を踏まえた上で、最も注目を集めた世界貿易センタービルへのテロをどう考えるか、と言うことであるが、これはやはりグローバル経済制度に対する不満の顕在化だと考えるべきなのだろう。

テロ事件後の原油価格急騰

話は少し飛ぶが、同時多発テロに前後して、国際的な原油価格がこれまでに例を見ないほどに急騰しだした。これまでも二度のオイルショックがあり、それによって世界経済は大混乱に陥ったのだが、特に2000年代後半の原油価格の値上がりは、その比ではない急上昇であった。ただ、オイルショックの時には、経済全体が石油に強く依存していたので、典型的にはトイレットペーパーが店頭からなくなると言ったような、石油とは直接関わらないような商品にも影響が及んで一般物価が高騰したということがあった。第二次オイルショック後には、次第に経済から原油価格変動の影響力を少なくしようという努力がなされ、消費者サイドでの省エネ意識の向上も相俟って、原油の値段にかかわらず、最終商品自体はあまり影響を受けなくなっていた。グラフを見てわかるように、ニクソンショック以降第二次オイルショックの頃まではドルベースでの実質石油価格が非常に高かったのだが、第二次オイルショック後、特にプラザ合意によるドル安によって、ドルベースで行われていた石油の価格自体が実質的に下がってきたと言うことも大きく影響していた(薄い緑が物価調整済み)。だから、同時多発テロ後の原油価格の急騰では、過去のオイルショックのような急激な物価上昇や品不足のようなことは起こらず、実体経済への影響は、多少の石油製品の値上がりということにとどまり、それほどの実感は伴わなかったのではないかと考えられる。

中東発オイルショックの構造

産油国側はOPECという生産国機関を通じて、特に第四次中東戦争で石油の輸出制限などを行ったことで第一次オイルショックが起きた。引き続いてイランでの政情不安によって第二次オイルショックが起き、これに対してイラクが介入したのがイラン・イラク戦争であった。オイルショックの期間は、中東の政情不安が原油供給不安に結びつき、それが一般物価水準に直接影響してインフレが起こるというメカニズムが作用していた。産油国は原油の生産制限を行うことでこのメカニズムの主導権を握り、原油からの利益を確保しようとしていた。しかしながら、オイルショックによる原油価格の高騰によって軍備を拡大し、当時世界第四位の軍事大国であったとも言われるイラクが、イランのイスラム革命に対してアラブの大義を掲げて戦争を仕掛けたことで、そのメカニズムが変わった。おそらく、第四次中東戦争の結果起きたオイルショックで大きな利益を得たフセインは、更に戦争を起こせばもっと原油が値上がりしてイラクに利益をもたらす、というもくろみがあったのだろうが、世界各国は原油価格の上昇が一般物価に大きく反映しないよう政策調整を行っており、戦争を続けても原油価格は比較的安定して推移した。特に85年のプラザ合意は、ドルが各国通貨に対して大きく値下がりすることで、原油-ドル-各国通貨の連動性が消え、原油価格の高騰が世界の物価水準に直接影響するというメカニズムがなくなったことを意味し、これによって産油国による世界経済への直接的な影響力が大きくそがれたのだ。

目論見の外れたフセイン

戦争が終わってフセインがふと我に返ってみると、頼りの原油価格は安定し、残された膨大な債務の返済の見込みがなくなっていた。一方で、イラクがアラブの防波堤として守っていたはずの隣国クウェートをはじめとした他の湾岸諸国は、OPECによる生産協定を無視して原油生産を拡大し、自己利益の確保に躍起になっていた。戦争による原油値上がりという目論見は、フセインだけではなく、ある程度アラブ諸国に共有されていたものだと思われ、どこもその目論見が外れたので、生産調整などやっている余裕がなく、どんどん産出を拡大して市場を確保する必要が出てきていたのだ。しかし産出拡大しても、その利益は金融市場に吸い込まれるばかりで手元には残らなくなっていた。

ババ抜きゲームの皮肉な帰結

そこで起こったのが、湾岸戦争の原因となったイラクのクウェート侵攻である。これが、原油価格の低迷によりイラクが債務の返済ができなくなったということに起因することを考えると、第一次世界大戦から第二次世界大戦へとつながったドイツの戦後賠償問題と重なってくる。しかしながら、国家賠償であったドイツの戦後賠償問題に比べ、戦争賠償がなくなった第二次大戦後の世界では、武器の売り込みによる民間債権の返済が主たる問題となっていた。その戦争で、アメリカや、イランと関係の深かった中国も含め、様々な国が両方の国に武器を売り込んで、10年に亘る戦争に薪をくべ続けており、一方で東西冷戦構造下の同時期にソ連がのめり込んでいたのがアフガニスタンであった。レーガン・ブッシュ政権はイランコントラ事件を起こす程の熱意で両国に武器を売り込んでは見たものの、戦争終了後その債権の回収の見込みが立たず、結局湾岸戦争でイラクと戦いそれを下したが状況は変わらず、ただ戦費をアラブ諸国や日本につけ回して戦争ビジネスの有効性を何とか確保しただけだった。その結果として” It’s the economy, Stupid.”と言われてクリントンに負けた、というのが92年大統領選挙であったと言えるかも知れない。

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