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アシックス金融派生商品について

サステナビリティ・リンク・デリバティブ

令和3年8月6日付日本経済新聞8面金融経済欄で、アシックスが、サステナビリティ・リンク・デリバティブ(SLD)を導入したという記事が出ていた。これは、環境関連の目標達成状況に応じて外貨調達レートが変わるものであるという。環境関連の金融商品としては、これまでも、サステナビリティ・リンク・ローン(SLL)という、環境目標達成度合いに応じて貸出金利が変わるというものがあった。確かに、ローンの場合は銀行から借りなければ調達がきかないということもあり、そこで環境イメージを上げるというのは一つの手法であろう。そして、外貨調達自体も、基本的には銀行経由ということになり、それも仕組としては同じであるが、名前がデリバティブというのはどうにもいただけない。これはなんら金融からの派生でなく、単に環境目標が達成できなかったらペナルティを支払う、というだけのことであり、本来ならば自社で勝手に管理すれば良いところを、イメージアップのために銀行を噛ませているに過ぎない。元の契約が為替先物というデリバティブの一種を使っているだけで、仕組に金融に関わる派生技術が使われているわけでもないのに、わざわざデリバティブという名前を使うのは、ミスリーディングであると言わざるを得ない。本来的にはサステナビリティ・リンク・エクスチェンジとでもすべきであろう。

デリバティブ・イメージ・ロンダリング

この、銀行の一種のサービスに対して、ドイツ証券の担当者は「資金調達が不要な顧客にもデリバティブであればニーズがある。SLDは様々な金融商品をベースに開発できるため、足元の引き合いは強い。」としている。これの意味するところは、既存のデリバティブについて、その上に「環境」を冠して、商品本体とはなんの関係もない環境目標達成度合いについてペナルティを課せば、イメージロンダリングができる、ということである。無駄な計算力を使うデリバティブ自体の環境負荷が非常に大きく、特にこの半導体供給不足の折に、デリバティブのために半導体が用いられるという無駄を防がないといけないのに、そこに「環境」の名を冠することで、あたかもいいことをしているかのような錯覚を与えるのは問題が大きいと言わざるを得ない。

アシックス 毎日マラソン

アシックスという会社は、非常にイメージ戦略が上手な会社で、まずは東京オリンピックに先立って行われた大阪の毎日マラソンで、その前回のローマオリンピックで裸足で優勝して話題となったエチオピアのアベベ・ビキラと同僚のワミにシューズを提案し、アベベはそれを履いて優勝している。しかしながら、群衆がコースに入ってきたりしたとして、記録は平凡なものにとどまったという。自動車の排気ガス等が問題になったとされているが、実際にはアベベを勝たせるためのヤラセ的なものがあったのではないかとも想像できる。それが嫌だったか、アベベは結局東京オリンピックの本番ではプーマを履いている。その時の銀メダリスト、そして同メダリストの円谷幸吉は、のちのアシックスであるオニツカを履いているが、円谷のその後のことを考えると、アベベにも大きな悩みを与えたのではないかとも推測できる。結局毎日マラソンは、その後環境を理由にして滋賀県に舞台を移し、びわ湖毎日マラソンとなって現在に至っている。

商業主義五輪の第一歩

その後には、1976年のモントリオールオリンピックで、フィンランドのラッセ・ビレンという選手がオニツカタイガーを履いて二つの金メダルを取り、それを靴に感謝しながらウイニングランを行ったことが世界中に放映されたことが、オニツカのイメージをさらに上げたと言える。なお、このモントリオールオリンピックは、IOCがオリンピック憲章からアマチュア条項を削除して初めて開催された夏季オリンピックであった。その後、西側がボイコットしたモスクワオリンピックを挟んで、84年のロサンゼルスオリンピックでオリンピックの商業化が一気に進むことになる、そのきっかけとなったモントリオールでの世界への広告効果の大きさを示したのが、このオニツカのシューズであったと言える。

アシックスの財務戦略

このように、オリンピックに商業主義をもたらした尖兵とも言えるアシックスであるが、それに関わって、政治的にも様々な問題があってここには書き切れないほどなのだが、それとは別に会計的にもいろいろな問題を作り出してきた会社のようだ。1956年のメルボルンオリンピックの日本選手団のトレーニングシューズとして採用され、需要が高まり始めたと考えられるその翌年昭和32年には、裏帳簿がつけられていたことが発覚し、2000万円の追徴課税を受けたという。翌昭和33年、生産子会社のオニツカ株式会社が存続会社となり、鬼塚株式会社、販売子会社の東京鬼塚株式会社を合併したという。大蔵省出身の池田勇人が大蔵大臣の時に怪しい経理を指摘され、内閣改造で池田が閣外に去った後合併が行われ、それによって裏帳簿を有耶無耶にした可能性もあるのではないかとも疑われる。池田の後の大蔵大臣一万田尚登は池田と常に衝突していた。さらにその翌年5月には自らの持株の7割を全社員に分けたという。とは言っても、新人社員には、有償、分割払いで分けたということで、むしろ増資の負担を新人社員に押し付けたと言った方が良いのだろう。そして61年にアベベ事件があり、63年にどこから持ってきたのか、休眠会社の中央産業株式会社がオニツカ株式会社を吸収合併した上でオニツカ株式会社に商号変更をしている。それなら元からオニツカ株式会社の方を存続会社にしておけば良いようなものだが、額面変更目的ということで、社員に分けた株の希薄化、あるいは逆に額面を上げて上場での売却益拡大でもはかったのではないかと疑われる。実際、オニツカは翌年オリンピック直前に神戸証券取引所、大阪証券取引所2部に上場している。のちのアメリカの投資銀行が行うような手法を、この段階ですでに原型として提示しているともいえるのだ。当時の大蔵大臣は、山一證券に日銀特融を入れ、日本経済の証券化に舵を大きく切った田中角栄であった。結局オリンピック後にはすぐに経営危機となり、昭和41年には手形繰延に至ったという。

ナイキとアシックス

上場した年には、2年前にオニツカのアメリカ販売権を取得していたスタンフォード大学経営大学院生のフィル・ナイトが、ナイキの前身会社となるブルーリボンスポーツ(BRS)社を設立し、オニツカの輸入販売を開始し、一方でオニツカはBRSの協力で「タイガー・コルテッツ」をデザインした。しかし、BRSはオニツカとトラブルになり、日商岩井を絡めて71年にはオニツカとの提携を終了し、福岡のアサヒシューズで生産を開始した。コルテッツについてはのちに裁判となり、オニツカが1億円以上の和解金を支払うことになった。商標という知的財産の争奪裁判ということで、MBAのモデルケースになりそうなことを、ここでも行っているのだ。そんなことがあった上での76年のモントリオールオリンピックでの話となる。それを考えると、和解金と言いながら、その実、コンサルタント料か広告宣伝費のようなものだったのではないか、という疑いもある。ナイキにしろ、オニツカにしろ、それによって商業化の図られたモントリオールオリンピック前に話題提供をし、うまくビジネス展開につなげたのだろう。オニツカは翌年にさらに合併をして社名を株式会社アシックスとし、スポーツ用品総合メーカーとなった。

SLDのESGへのネガティブ効果

このように、財テクとロンダリングを繰り返して大きくなってきたアシックスが、またも、環境の名でデリバティブという財テクの道具をロンダリングに使えるよう為替取引をロンダリングしたのが、このSLDであると言える。ESGの中でも、もしかしたら環境には多少貢献するかもしれないが、SとGに関しては明らかに負の効果しか持たないこのような商品を持ち上げることは、ESGの流れに大きなブレーキをかけることになるだろう。

なんか、カタカナと横文字ばかりの文章で失礼しました。


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