広島文脈の結晶・宏池会の源流5

これまでの流れは、

明けて昭和33戊戌年(1958年)、1月1日に欧州経済共同体と欧州原子力共同体が設立された。57年末にはフランスに続いてベルギーやスウェーデンでも原発建設が始まっており、ヨーロッパは本格的に原子力時代に入ろうとしていた。一方中東では、2月1日にエジプト共和国とシリア共和国が合併し、アラブ連合共和国が建国され、それに対抗する形で2月14日にイラクとヨルダンによる連邦国家、アラブ連邦が発足し、アラブの王政を巡って動きが激しくなっていた。しかし、アラブ連邦の方は、7月14日にイラクの自由将校団を率いるアブドゥル・カリム・カースィムらが7月14日革命と呼ばれるクーデターにより実権を掌握し、王政が倒れたことですぐに瓦解してしまった。3月27日には、ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記がソビエト連邦の首相を兼務することになった。

この激しい国際情勢の動きの中で外務大臣を務めていたのが藤山愛一郎であった。藤山は、三井中興の祖とも呼ばれる中上川彦次郎の義理の妹婿であった藤山雷太の息子で、中上川の娘婿である池田成彬が三井銀行で出征していったのに対し、藤山雷太は大日本製糖など、実業界で大きな力を持ち、藤山コンツェルンを作り上げたが、その後を継いだのが愛一郎であった。実は、中上川の頃の三井の実態というのはあまり明らかではなく、日露戦争後に三井合名を作り、三井銀行を株式会社化したとされるまでは、何を三井と呼べるのか、ということもあまり明らかではないといえる。だから、実質的には金融の知識をアメリカで学んだであろう池田成彬が三井銀行を始めたと言っても良いともいえるのだが、池田は昭和恐慌の時に台湾銀行からコール資金を引き上げ、それによって鈴木商店を破綻させており、一方藤山の大日本精糖も鈴木商店と関わりがあった。そしてこの年昭和33年(1958年)は、三井物産が大合同を果たした年でもある。それを考えると、もしかしたらこの藤山外相の下で、戦前に実際には鈴木商店の傘下であった企業群を全て三井のものだとして再編する、ということが行われたのではないか。鈴木商店の後継として、日商という会社があったが、その日商は、前回取り上げた池田勇人の絡んだ第一次防衛力整備計画で持ち上がった第一次FXの導入に際してグラマンの代理店として名が出てくる。鈴木商店破綻後にわずか39人で立ち上げた日商を取り立ててその後継だと強調するところにも、鈴木商店本体の行方をわかりにくくする狙いがあるのではないかと疑われる。

4月25日には、話し合い解散と呼ばれる衆議院解散となった。長らく選挙がなく、与野党共に選挙を望む声がある中、予算成立後に解散となった。政局にならずに解散となったのは特筆すべきだが、実はこの解散の2週間ほど前4月12日に第一次FXでグラマンの導入が国防会議によって決まっている。その国防会議に、なぜか経済企画庁長官がそのメンバーとなっており、当時第1次岸改造内閣の経済企画庁長官は河野一郎であった。また、その国防会議ができた昭和31丙申年(1956年)7月2日、第3次鳩山一郎内閣の時に行政制度の変更を管轄していただろう行政管理庁長官を農林大臣と兼務していたのもやはり河野一郎であった。FX導入は、このように最初から河野一郎のプランで運んでいたことになる。なお、防衛大臣は大蔵省出身で戦中に蔵相も務めた津島壽一で、蔵相時代にはのちに宏池会を率いることになる大平正芳を同郷のよしみもあり秘書官としていたという。また、大蔵大臣は一万田尚登で、彼は長きにわたって日銀総裁を務めていた。一万田が日銀総裁在任中で池田勇人が蔵相を務めていた昭和24己丑年(1949年)、国際基督教大学(ICU)設立の話が出て、一万田は積極的に募金を募った。これにはキリスト教聖公会(国教会系)であったダグラス・マッカーサーも熱心に関わり、財団の理事長まで務めていた。しかしながら、マッカーサーが帰国した後に開学したICUはなぜか長老派となっている。長老派はカルヴァン派に属し、プロテスタントとは言っても国教会系とは流れが違い、マッカーサーがいなくなった後に教派を変えた疑いがある。一万田はサンフランシスコ講和条約に出席しており、その講和会議は長老派の国務長官顧問ジョン・フォスター・ダレスがアメリカ側の窓口だった。日銀総裁が講和会議の全権に加わるというのも妙な感じで、同じく出席した大蔵大臣池田勇人とともに、役務賠償のみとなった賠償の交換条件の一つとしてICUが長老派になることを求められたのかもしれない。あるいはFXについても何らかの条件が出ていたのかもしれない。なお、大平もクリスチャンであったが、この池田勇人の蔵相時代にも秘書官を務めていた。それはともかく、FXの機種選定が終わった直後に起こったのがこの話し合い解散であった。

5月22日には、第28回衆議院議員総選挙の投票が行われ、76.99%という高い投票率で、自民党は3議席減という結果になった。選挙の結果を受けて6月12日、第二次岸内閣が発足する。池田勇人は無任所の大臣として入閣した。8月14日に、自民党総務会長となっていた河野一郎が左藤防衛庁長官にグラマン採用の再検討を要請した。元々グラマンは導入が6年先ともされており、現実的な解ではなかった。それを河野が選挙前に一旦確定させ、それをここで元に戻そうとしたのだといえる。

さて、安保条約の更新時期まで2年を切ったということで、防衛問題に絡みながらアメリカとの関係も動き出した。それに対する催促の意味もあったか、アイゼンハワーの2年間核実験凍結の約束にも関わらず、8月27日にアメリカ合衆国軍はアーガス作戦を開始し、南大西洋で核実験を実施した。これには、上で述べたとおりソ連で無神論者であったフルシチョフが3月に閣僚会議の議長に就任しており、そしてフルシチョフの時代にはソ連の科学技術が急速に進歩していたということもあった。また、この頃アメリカの裏庭のキューバでも同じく宗教としてのキリスト教に否定的なカストロ率いる革命勢力が急速に力を増していた。

一方で、1954年に病気になったローマ教皇ピウス12世の病状が良くなかったということがああったかもしれない。実は、ピウス12世の後継というのが問題となっており、ドメニコ・タルディーニとのちにパウロ6世となるジョヴァンニ・バティスタ・モンティーニという有力候補がいたが、ピウス12世はどちらも枢機卿に任命していなかった。パウロ6世は、のちに教皇となった時、その教皇冠をアメリカ・ワシントンD.C.の「無原罪御宿りの聖母教会」に寄贈している。以降の教皇は戴冠式を行なっていないので、これが最後の教皇冠となっている。それはともかく、この教会は北米で最も大きい教会だが、第二次世界大戦前から建設中で、大恐慌と戦争によって中断され、1953年から建設資金が集められていた。なお、「無原罪御宿りの聖母教会」の建設には、原爆を投下したトルーマン大統領の就任式で祈りを捧げたパトリック・オーボイルが関わっていた。結局ピウス12世の後には意外に受け取られたというヨハネ23世が教皇となり、その5年の在任期間中にモンティーニを枢機卿に引き上げ、そしてヨハネ23世の没後にモンティーニはパウロ6世となった。

さて、ピウス12世は1951年11月21日にビッグバン理論が創世記の記述を裏付けているという公式声明を発表している。サンフランシスコ講和条約が調印された後のタイミングで出されてたこの声明は、解釈によっては原爆の投下を正当化するものであるとも受け取ることができる。それを先ほどの教皇冠の話を併せて考えると、キリスト教から”科学教”への時代の流れを象徴する出来事なのかもしれない。すでに述べたとおり、サンフランシスコ講和会議には蔵相池田勇人とICU設立に関わった日銀総裁一万田尚登が出席していた。また、吉田茂に同行した娘の麻生和子はカトリックであった。

一方で、教皇にならなかったドメニコ・タルディーニは、のちにヴァチカンの財務問題について追及をおこなっている。問題自体は従業員に対する支払いについてだったが、財務問題への切り込み自体がタブーであったことをおこなったことになる。これは、公会議を開こうという教皇のアイディアに従って準備をしていた最中の1959年10月に記者会見を開いたもので、記者会見まで開いたことから、単なる支払いの問題ではなかったことを窺わせる。タルディーニはその後何度も辞意を表明したが、結局記者会見から2年も満たずに心臓病によって亡くなった。もしかしたら、この背景にはサンフランシスコ講和条約での賠償の代わりとして、ICUと「無原罪御宿りの聖母教会」の設立、建設資金が何らかの形で流れ、それが不透明資金としてヴァチカンに流れ込んで教皇選びに影響したという可能性もあるのではないか。

もっとも、公式の資金で流れるわけではないから、その後のどこかで非公式の金の流れが生じたと推測されるが、それが、一万田が大蔵大臣をしていた時の鳩山一郎内閣での日ソ交渉で、満州や朝鮮、あるいは千島樺太に関わる帳簿の整理が行われ、そこからの金が流れたのではないだろうか。交渉を担当した河野一郎の孫である河野太郎はのちにアメリカのカトリックの大学であるジョージタウン大学に留学している。また、パウロ6世が教皇となった1963年は、その年末に河野洋平が関わる富士スピードウェイの運営会社日本ナスカー株式会社が設立されている。河野洋平は資金集めに苦労したとされるが、その割にはサーキットのオープン前に手を引くという非常にわかりにくい行動をとっている。そして日本ナスカー設立の直前、11月22日にはアメリカ初のカトリックの大統領ケネディが殺されている。このあたり、話が広がりすぎて本筋からずれてしまうので、ここまでにしておく。

ちょっと宏池会の話と離れてしまったが、この年は国際政治が大きく動いた年であり、それを見ておかないとその後の動きが見えにくいので、国際情勢と絡めながら見ている。この年はまだ続くが、ひとまずはここで切りとする。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。