見出し画像

広島から臨む未来、広島から顧みる歴史(22)

牛頭天王の起源

京都祇園社の祇園、そして素戔嗚信仰については、津和野の祇園社、つまり弥栄神社が元になっているのではないか、ということを書いてきたが、それでは京都祇園社でその本地とされる牛頭天王についてはどうなのだろうか。これに関しては、津和野祇園社弥栄神社にはその名残は見当たらないので、何らかの別の話がありそう。

播磨 広峯神社

そこで前回の播磨広峯社の話に戻ることになる。

広峯神社(ひろみねじんじゃ)は、兵庫県姫路市の広峰山山頂にある神社である。 全国にある牛頭天王の総本宮。
『播磨鑑』には「崇神天皇の御代に廣峯山に神籬を建て」とある。天平5年(733年)、唐から帰った吉備真備が都へ戻る途中この地で神威を感じ、それを聖武天皇に報告したことにより、翌天平6年(734年)、白幣山に創建されたのに始まると伝えられる(広島県福山市の素盞嗚神社の社伝によれば吉備真備は備後から勧請したという)。天禄3年(972年)に現在地の広峰山頂に遷座した。
牛頭天王に対する信仰は、御霊信仰の影響により、厄いをもたらす神を祀ることで疫病や災厄を免れようとするもので、以下に記す祇園社(八坂神社)の「祇園信仰」が有名であるが、当社においては主として稲作の豊饒を祈願した内容の信仰となった。これを「広峯信仰」と呼び、当社が古くから農業の神として崇拝された所以である。
貞観11年(869年)、当社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)を分祠したとする説があり、貞応2年(1223年)の文書にも「祇園本社播磨国広峯社」とある。そこから祇園社(牛頭天王社)の元宮・総本社とも言われているが、八坂神社とは今なお本社争いがくすぶっている。

Wikipedia | 広峯神社

牛頭天王の元が広峯神社だとする説があるとするが、それがいつ広峯神社に入ったのか、ということについては特に書かれていない。そこで、広峯神社の由緒記を見てみると、

創建者である吉備真備公が遣唐使(留学生)として唐(中国)に渡り、永き十八年をかけて十三道の学問を修学。特に陰陽を極め、帰朝後に陰陽暦学を世に広めるために、日本の神々を唐ノ国の暦神におきかえ、素戔嗚尊を牛頭天王・天道神に、奇稲田媛命を頗梨采女・歳徳神に、天照大御神との誓約で誕生した八王子の神々を八将神に配して、こよみを司る日本の暦神とした、(一部改変)

廣峯神社 | 廣峯ものがたり 3月


とあり 、吉備真備が暦とともに導入したとされるが、そもそも中国に牛頭天王に相当するものがない以上、この話は疑わしい。そして、牛の神様をわざわざ山の上に持って行って祀るというのは個人的にはどうもすっきりしないので、多分ここが本社だというのは違うのではないかと感じる。特にそれが稲作の豊穣を祈願し、広峯信仰と呼ばれる農業の神として崇拝されたとなると、ますます山の上というのは違和感を覚える。ただし、暦と関わるのならば、農業神であるという話は納得がいく。牛頭天王が南伝だとして、水牛と稲作というイメージまではなんとかつながるが、それが山の上に祀られるというのはやはりよくわからない。やはりどちらかと言えば修験道系の信仰が元になっているのではないだろうか。この辺りは、陰陽道が修験道と暦を無理やりに結びつけようとした結果なのかもしれない。

福山 素盞嗚神社

牛頭天王が元々そことは関係がなかったとしたら、京都祇園の本社が広峯神社であったという話もやはり違うということになり、そうなると一体どこが、ということで、括弧書きで出てきた、備後一宮ともされる福山の素盞嗚神社が浮上する。

疫隈國社 素盞嗚神社(てんのうさん)  市指定重要文化財
素盞嗚神社(巨旦将来屋敷跡)
この素盞嗚神社は、備後風土記に見られる蘇民将来伝説の舞台となる神話に彩られた由緒正しい古社です。
社伝によれば679年の創建したとされ、後に遣唐使であった吉備真備が天平6年 (734年)に素盞嗚神社から播磨の広峯神社に勧請し、さらに貞観11年(869年)、広峯神社から平安京の祇園観慶寺感神院(現在の八坂神社)に牛頭天王(素戔嗚尊)勧請されたとされています。

新市町観光協会 | 疫隈國社 素盞嗚神社

『釈日本紀』巻7(卜部兼方、鎌倉時代中期)に引用された『備後国風土記』逸文(奈良時代か)の「蘇民将来」説話に「疫隈國社(エノクマノクニツヤシロ)」とあるのが当社とされるが、本来は摂社である「蘇民神社・疱瘡神社」であるとする説もある。『延喜式神名帳』には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記載されている。
後に神仏習合によって仏教系の神である牛頭天王を祭神とするようになり、「早苗山天竜院天王寺」という真言系の別当寺が作られた。本堂である本地堂(現 天満宮)には本尊本地仏として聖観世音菩薩が祀られた。一般に牛頭天王の本地仏は薬師如来であるが、当社の観音祭祀の理由は不明である。

Wikipedia | 素盞嗚神社 (福山市新市町戸手)

素戔嗚 天武天皇説

天武天皇八年にあたる679年に何があったか、と言うと、『日本書紀』から見てみると、吉野の盟約によって六人の皇子の序列を定め、食封方式を確立し、竜田山と大坂山に関を置き、難波には外壁を築かせた。また、仏教に関わるような政策も目立ち、食封の確立に伴って寺院の収入を国家が決定するようにし、倭京の24寺と宮中で『金光明経』を説かせ、そして王卿らが怠慢で悪人を見過ごしていると言って戒めながら恩赦によってそれまでに流罪になった者も赦すという道徳的とも言える手法をとった。一方、大陸に目を移すと、のちに阿倍仲麻呂が務めることになる安南都護府を唐が交州に設置している。『日本書紀』の年号記述が全て信用がおけるか、というとそんなことはないように感じ、だから、もしかすると、素戔嗚というのは仏教政策を強力に推し進めた天武天皇のことであり、それが巨旦将来を討った年というのがこの679年だったのかもしれない。新市町観光協会のサイトには、素戔嗚が出雲から南海まで旅をし、その途中で蘇民将来の家に泊まり、のちにその蘇民の娘を除いて、八つ裂きにして滅ぼてしまったという話が載っている。

乙巳の変の構図

そうなると、持統天皇が蘇民の娘となるのかもしれず、それによって乙巳の変の構図も違ったものが見えてくるのかもしれない。

645年6月、三韓から進貢の使者が来日し、宮中で儀式が行なわれた。古人大兄皇子は皇極天皇の側に侍していたが、その儀式の最中、異母弟・中大兄皇子(天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。入鹿の父の蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。
事件後、皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、出家して吉野へ隠退した。しかし、同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、中大兄皇子が攻め殺させたとされる。
ただし、実際に謀反を企てていたかどうかについて、今日では諸説ある。皇子と共に謀反を企てた、とされる物部朴井椎子・倭漢文直麻呂・朴市秦田来津、吉備笠垂は、中大兄の体制下で役職を与えられ活躍している。さらに中大兄皇子は天智7年(668年)正月に即位し、2月に逆賊であるはずの古人大兄皇子の娘倭姫を娶り大后(皇后)としている。古人大兄皇子の与同者とされたもののうち、蘇我田口川堀を除く全員が、その後も官人として活動していることから、この事件は古人大兄皇子と蘇我氏を排斥することを目的としていたことがわかる。

Wikipedia | 古人大兄皇子

とあり、兄弟は逆になるが、古人が巨旦将来で、それを討ったのが中大兄皇子ではなく大海人皇子であったとすれば、出雲から吉備に入って独立的な勢力を築いた大海人皇子が現在の皇子を討ってその娘の持統天皇を嫁として自分が皇位についたという可能性も見えてくる。密告者が吉備笠垂で、韓人が入鹿を討ったということになると、朝鮮半島方面から出雲に入った勢力が吉備まで南下し、そこで偽の使者か何かを送って、当時の政権の大幹部を討った、ということになるか。新羅との交流はどの程度平和的だったかの検証も必要となりそう。

乙巳の変の国際的構図と地域

ただし、この動きは唐の高句麗征伐、そして則天武后の動きとも関わっていそうで、東アジア全体の構図の中で謎解きをしてゆく必要があるだろう。隋から唐の流れを見ても、この時の出雲の勢力というのが、いわゆる騎馬民族系の、中央アジア周辺で当時勃興期だったイスラム教の影響を受けた、商業的宗教、つまり価値観の押し付けによって高く売って安く買い叩こうとする人々であった可能性が高いのではないだろうか。それを考えると、また暦ということも頭に入れると、牛頭天王ではなく午頭天王、つまり牛ではなく午だった可能性というのも十分に考慮する必要があるだろう。

ただ、それはそのようにグローバルな動きの一部でありながら、東国はもちろん、畿内だって影響があったかどうか、山陰から直接新羅との交通があったのならば、もしかしたら四国どころか九州すらも影響がなかったかもしれない非常にローカルな動きであったかもしれないということも注記する必要があるのだろう。この時期に日本全国を統治するような全国政権があったのか、そしてそれはこのような大動乱の後にいかにして可能だったのか、ということも含め、検討すべきことは多くありそう。

吉備真備と『日本書紀』の信頼性

聖武朝の天平6年(734年)10月に第10次遣唐使の帰国に伴って玄昉と同船で帰途に就き、途中で種子島に漂着するが、翌天平7年(735年)4月に多くの典籍を携えて帰朝した。

Wikipedia | 吉備真備

となっているが、広峯神社もこの吉備津神社も天平六年に吉備真備が広峯神社に勧請したとしており、それは真備の帰朝前で、年が合わない。むしろ吉備がおかしいということで、備後と播磨で挟み撃ち、という構図かもしれないし、あるいは佐伯部というのが、『日本書紀』の記述によると、騒がしかったり無礼を働いたりするので「畿内に住むべからず」との景行天皇の命で、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の5ヶ国に送られたのがその祖であるとしているその一環で播磨に送られたり、ということがあったのかもしれない。この『日本書紀』の記述を見てみると、畿内というのが吉備を意味し、そこから追い出されたと記述しているようにも見える。この記述が誰の都合で誰によって書かれたのか、ということは、より深く考えられるべきだろう。

吉備真備についてのこの記述がずれているということは、『日本書紀』の段階で、すでに広峯神社の創建時期について齟齬が発生していたことを意味し、すなわち『日本書紀』の記述信頼性について疑問が残ることになり、そしてそれを証明するためにその創建伝承を残していると言えるのかもしれない。『日本書紀』側では、それをなんとか希釈するために、あちこちに素戔嗚、牛頭天王、祇園、さらに降っては津島や吉田といったことに関する伝承を残して、その記述信頼性に触れられないように隠してきたと言えるのかもしれない。

ただ、中国山地に葦原中国があるのか、あるいは福山の素盞嗚神社があるあたりを葦原中国と呼べるのかどうか、ということについては問題が残りそうで、どこか別のところ、中国地方ならば何度か触れている秋吉台とか、あるいは九州の阿蘇山周辺など、もう少し葦原中国らしいと言えるところが本来の素戔嗚伝承の地であったと考えられそうで、それはまた時代も場所も違う話が、『日本書紀』編纂過程で蘇我氏滅亡のところに一緒に整理された可能性が高いのではないか、とも感じる。

京都祇園社と牛頭天王

さて、広峯神社から京都祇園社に牛頭天王が勧請されたという貞観十一年は、京都祇園社に天神が降臨した年の七年前となる。ただし、祇園社では天神降臨と言っているようなので、それが当時牛頭天王と呼ばれていたかどうかは定かではない。そして、祇園社では牛頭天王を仏教の仏として考えているはずなので、天神と言っている時点で、それは牛頭天王ではなさそう。つまり、京都祇園社では貞観十八年に初めて神である素戔嗚が降臨した、という話になっていそうだ、ということが言える。ただ、素戔嗚が天神信仰の枠組みで捉えられることはあまりないようで、そうなると京都祇園社の話というのは、結局のところそれほどの波及力を持っていなかったということが言えそう。そして、京都祇園社が素戔嗚の本宮であるという話は寡聞にして聞かず、むしろ本来的には神とは認めていなかったはずの牛頭天王の本宮として広がらざるを得なかったところに、京都祇園社の現実的限界があったのだと言えそう。それは、京都祇園社が、津和野の祇園社と、広島廿日市の天神社の良いとこどりを目指した結果なのではないかと感じられる。

誰かが読んで、評価をしてくれた、ということはとても大きな励みになります。サポート、本当にありがとうございます。