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指名手配のクロ

ねこのひたいほどの ほそながいにわは
のらねこたちの とおりみちになっている
そのなかの クロとよばれている しろくろねこは
いたずらものなので きんじょのひとたちから しめいてはいされている


これはわたしが小学生の頃に書いた詩の一節を、再現したものです。
正確には覚えていないので、この通りではありませんでした。しかし書き出しの「ねこのひたいほどの」と「しめいてはい」は覚えたての単語を使ったので得意だったこと(本当にどこから得たボキャブラリーだろう)、先生がその詩をわら半紙に刷ってクラスのみんなに配ってくれたことは、よく覚えています。

クロは、決して人間に気を許すことはありませんでした。
誰かが少しでも近寄ろうものなら、小柄な身体をさっと起こして、素早く距離を取りました。
その姿は怯えているというより、媚びずに生きている野良猫の気高さを感じました。
ゴミは荒らすわ、他の猫と派手にケンカはするわ、大人たちは頭を抱える問題児であったものの、わたしはクロが好きでした。

また、クロは「しゃべる猫」でもあったのです。
ある時わたしが何気なく、

ぴゅぴゅぴゅぴゅぴゅ

と口笛を吹いたら、それを聞いていたクロは

にゃにゃにゃにゃにゃん

と言ったのです(!)

それは果たして「しゃべった」と言えるのか、というツッコミは承知の上ですが、とにかくクロは頭が良かったし、口笛を真似をして人間と遊ぶような、ちょっと味のある猫だったのです。

そんな彼女が、ある時子どもを産みました。
ミケと、縞模様と、彼女によく似た白黒柄の三匹でした。

初めてのお産では、母親が育児を放棄してしまって、うまく子どもが育たない例も多いと聞きました。
けれどもクロは熱心な母親で、よく子猫の世話をしました。

ある時わたしが三匹の子猫に猫じゃらしを振って構っていたら、普段なら決して一定以上の距離は近寄らないクロがすぐ横までやってきて座り、子猫の様子をじっと見ていました。
頭を垂れて子どもを見守るその姿は、お転婆で暴れてばかりだった以前の彼女とは違っていて、なんだか心がきゅっとするのでした。

動物と関係を持つうえで、わたしは少し恐れていることがあります。言葉を介すことができない分、こちらの理想や思い込みをひとりよがりに投影してしまいそうな気がするのです。喜んでいるとか、互いを信頼し合っているとか、あくまで人間側の価値観や枠組みに当てはめているだけで、当の動物たちはまったく別の感情を持っていることだってありうると思うのです。
振り返ればクロとの日々は、触れ合うことも助け合うこともなく、ただお互いが近所に存在していたにすぎません。しかし、そこになにがしかの「交流」があったことは確かでした。

クロが姿を消してから、ずいぶん長い月日が流れました。
口笛に応える彼女の、すました顔を今でも時々思い出します。

画材費、展示運営費、また様々な企画に役立てられたらと思っています。ご協力いただける方、ぜひサポートをお願いいたします。