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夏草の庭

休みになると、親戚の家に遊びに行くのが楽しみでした。
電車を乗り継いで二時間ほどの郊外にある、古い団地でした。

白く四角い建物がずらっと並ぶのはなかなか壮観で、夏に行くときは近所の人が手入れしているらしい庭に、草花が青青としげっていたのを覚えています。

団地でのわたしは、さながらバカンス中の観光客のようにのびのびしていました。
バランス釜のお風呂や、なぜか現役で使われていた黒電話のけたたましい響き。和室に積まれた古いマンガ本や、ペンキを厚塗りした壁など、当時の団地の風物はバカンスのそれとは似ても似つかぬものばかりです。でも、気持ちは限りなく豪奢なものでした。

芝生を渡ってきた風で、開け放った窓のレースのカーテンが丸く膨らみました。
自宅とは異なる洗剤の香りや、昔の歌手のポスターや、鏡に貼られた小さなパンダのシールなどが、夏休みの特別な時間を彩っていました。
遊びにきている間は、親たちの干渉がいくらかやわらぐので、わたしは心からのんびりすることができたのです。

優しくしてくれた親戚たちと別れて団地から帰ってくると、夏休みがいよいよ終わりに近づいていることを感じて切なくなりました。
学校が嫌いだったわけではなく、友達に会えるのは楽しみなはずなのに、浮かない心を抱えて悩みました。

しかしそんな気持ちを誰かに打ち明けるわけでもなく、カレンダーが9月1日を運んでくると同時に、わたしの日常はまたもとに戻っていきました。
教室で座って授業を受けて、苦手ながらも冷たいプールに入って、友達と遊んだりケンカしたりするのに忙しくなりました。

それでもふと、ひとりになった帰り道で、このまま駅に行って電車に乗って、あの町に行ってしまったらどうだろう、と思うことが何度かありました。
それは大冒険のようでわくわくすると同時に、自分の自由というものがすごく制限されているのだという実感を深める結果にもなって、悲しい考えでもあったのでした。

今、当時と似たような団地を見かけると、とても懐かしい気持ちになります。
また訪ねて行ってみたい気持ちもあるのですが、あの頃のような強い憧れはありません。

子どもはある日を境に急に大人になるわけではなく、人間はいくつになったって本質的には同じようなことで悩み、苦しんでいるように思います。
ただし大人は子どもと比べて体が大きく、選択肢と手段を多く持っています。
このことで、わたしは成長してずいぶん楽になったと感じます(同時に失ったものもたくさんあるのですが、それはまた別の話です)。

生きている限り、環境や付き合う人は自ずと変化していきます。
また、成長するとその変化を自分で選ぶことができるようになります。

夏休みの終わりに重い心を抱えている人がいるならば、少し考えてみてください。
秋がきて、冬がきて、春がきて、また季節は巡ります。
動いていても止まっていても、時間は流れていきます。
「今」をどうにか乗りこなしながら、そのときを待ってみませんか。
そしてまた、青葉のしげる夏の庭を見るとき、わたしたちはひとつ大きくなっているはずです。

画材費、展示運営費、また様々な企画に役立てられたらと思っています。ご協力いただける方、ぜひサポートをお願いいたします。