直系家族と拡大家族

当たり前過ぎて考えなかったことを考えてみたい。

「私と子どもの関係性」

子どもにとって私はどんな親なんだろう。幡野広志さんの「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」を読んで考えたくなった。

今私は生きたいように生きている。でも本当に生きたいように生きているんだろうか?ちゃんと自分で選んでいるんだろうか?誰かの「べき」で自分の行く路を選んでいないだろうか?そもそもどうしてまだ実家に住んでいるんだろうか。親との依存関係に陥ってはないだろうか。

そういえば、ひとり旅は常にワクワクしている。沖縄に行った時も、名護でバスに乗って辺野古の方へ行く途中、トンネルを抜けると海が昼の太陽に照らされていた。そんな時思わずLINEで子どもに電話をかけた。あの景色をどうしても見せたかったからだ。彼にも世界の広さに興味をもってほしかった。ただ不思議なことに、私が世界で起きているアレコレを見せれば見せるほど、彼はゲームに打ち込んでいった。そんな感じがした。

そもそも私が子どもに共感させようとしてはいけないんだ。コントロールされること、指示されることを嫌がる私が、子どもをコントロールしようとしているのかもしれない。「世界が広いことを感じてほしい」私の世界はまだまだちっぽけなのに、よくもそんなわかったフリをして。自分が恥ずかしい。そして日々の生活で私と母がケンカしそうな空気を察知して、まあまあ落ち着けとケンカにならない言葉かけをしてくれる。そんな彼にいつもいらぬ気苦労をさせているなと反省。

幡野さんの本に話は戻り、興味深かったのは家族の定義付けだ。NASA(アメリカ航空宇宙局)における「家族」の定義は「直系家族」と「拡大家族」である。まず「直系家族」とは①配偶者②子ども③子どもの配偶者だ。この定義によると今の私は子どもと私の2人家族だ。そして親も兄弟も親戚もみんな「拡大家族」に分類される。ただ子どもが大人になった時、私は「拡大家族」のメンバーのひとりになる。彼が選んだパートナーが直系家族の1番目となる。そこはしっかり受け止めたい。自分でパートナーを選び家族をつくる。素敵だ。

私についても。私は誰かに嘘をつくような生き方はしたくない。正直でいたい。そして私は自分を必要としてもらえることを常に望んでいるようだ。この考えは一体どこからきたんだろう?裏を返せば、必要とされない自分は存在価値がないと思っているのかもしれない。なんだか心の闇を見た気がする。少なくとも私を必要としてくれる子どもは学校にいる。だから私は先生という仕事を選んだのかもしれない。なんだか切ない。でも子どもと一緒に笑える時間が好きだから、すごく自由を感じるから、私は毎日会いに行く。結局子どもがいるところが私の居場所なんだろう。

自分で選ぶことができるって、ほんとはすごく難しいことなのかもしれない。選ぶ権利はもちろんあるんだけど、じっくり自分と向き合わなければ選びきれなくて誰かの視点で選んでいるのかもしれない。

私の子ども、彼も今いろんなことを考えているんだと思う。きっとこれからもずっと考え続けるんだろう。母として私がしたいことは、いつだって彼の選んだことを応援すること。彼の力を信じること。いつか拡大家族となってしまうけど、それまでは直系家族で見守ること。私が母でよかったなと彼が感じてくれたら幸せだな。

高校を卒業したらどんな暮らしがしたいか理想の暮らしを彼に聞いてみた。すると「山の中の一軒家で、雨が降ってて…そんな風景が見える。」そういえば昔、自給自足がしてみたいと言ってたなぁ、なるほど。「そこにママは一緒に暮らしている?」と聞くと「想像しがたいな、羽ばたいてそう。」なんだかすごく嬉しかった。





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