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新潟市りゅーとぴあ「ノイズム」の進退に見る、文化行政の未来

「ノイズム」の危機

人口80万人の政令都市・新潟市には、市立にもかかわらず「劇場」と呼ぶにふさわしい立派な公共ホールがあります。市の指定管理を受ける公益財団法人が5つの文化施設を管轄していて、予算規模は自主事業・文化事業を合わせると10数億と、片田舎の公共ホール職員にとっては垂涎ものの潤沢な資金源に支えられています。

もちろん、その資金は市からの指定管理費だけでなく、さまざまな助成金や寄付金でもまかなわれていて、その実績を裏付ける独自の制作事業のたまものであるわけです。

そんな独自のクリエイティブさを象徴する、「りゅーとぴあ」で滞在制作を行う舞踊カンパニー「ノイズム」の契約更新が、2020年8月以降、白紙のままだとのこと。ノイズムって何、という方には、コチラのYouTubeチャンネルを。

記事によると、

多くの市民に活動や存在が浸透しているとは言えない状況とし、ノイズムを税金で支える意味について議論が交わされたという。積極的に廃止すべきだという声はなかったが「今と同じ形態で続けるのは難しいのでは」との意見が出た。

新潟市では、この10年間で人口は1万人ほど減少。その間、財政基金を取り崩して都市整備、財政管理に充ててきたようです。その結果、300億超あった財政基金は10分の1の30億に。それと連動するようにして、市の借金である市債は一般・特別・企業会計を合わせると1兆円を超えるまでに。税収もじわじわと減り続けています。

去年(2018年)の秋、新しい市長が就任。それにともなって、これまで(おそらく)あ・うんの呼吸で続けていた事業の多くが見直しの対象となっており、文化行政もまた例にもれず、ターゲットになったというところでありましょう。

税金で支えるべき文化とは何か?

あいちトリエンナーレの慰安婦像撤去をめぐる言説でも繰り返し聞かれる「このようなアートを税金で支えるべきではない」という論理。公共の場でなされるアート活動を考えるとき、必ず直面する論理です。

ノイズムの公式ホームページに、ノイズムを応援する市民から次のようなメッセージが書き込まれていました。

大衆的な人気を持つ表現は、商業的世界の人々が担いやすい領域です。そうではない領域を支援することは、商業的世界の人々には逆に困難なことであり、その補完をこそ、行政が担うという考え方があっていいと思います。その考え方の確立が、新潟から、全国の都市に大きな波紋を広げていくことになるはずです。

すでに多くの人の感覚にマッチし、チケット収益で維持できる人気商売はどんどん民間で回し、未知の世界すぎてチケット収益ではまかないきれない作品は公共事業で、という考え方です。

ノイズムのように、舞踊家を20人も雇い、監督が新作を準備し(年間10本!)、日々稽古に励み、舞台セットや衣装を作り、国内外での公演をセッティングし、スタッフが移動し、学校や地域でワークショップや対談イベントをし、…ということをやっている団体は、どう考えてもチケット代だけでは活動できません。だから、監督や舞踊家のお給料や、制作にかかる実費の一部を税金でまかないましょうと。

(一方で、ファンクラブ会員が全国どこでも駆けつけるような企画もまた、市場の論理に任せるだけでは人が集まりやすい都市部に集中してしまうので、地方公演を税金で買い取る…という公共事業のあり方も考えられるけれど、これについては一家言あるのでまた機会を改めて。)

公共事業は何をすべきか?

公共性とは何か、ということがここで関わってくる。感情豊かな人も、即物的な人も、保守的な人も、革新的な人も集まる共同体で、最大公約数をとるのが公共なのか。それとも、たった1人の市民のために何かをすることが、結果的に大多数の市民に資することになるのか。

りゅーとぴあは、ノイズムの設立当初から、お金の使い方の根拠について明確な運営方針を打ち出しています

Noism設立に際し、新潟市とりゅーとぴあの文化予算が新たに増えたわけではありません。それまでは首都圏や海外で創られた作品を新潟に招聘するために使っていた予算を、劇場専属舞踊団の運営に充てることにしました
新潟に移り住み、集中した創作環境を保障された舞踊家の存在が、社会にとってどのような価値があり、その専門家集団を抱えることが地方都市の文化政策としてどのような意義を持つのか、Noismはそれを立証するモデルケースとなるべく、活動を続けています。

片田舎の公共ホールの職員からしてみれば(しつこい笑)、いち地方の自治体が抱える公共ホールが、世界トップのアーティストと直接契約を結んでいて、そこで毎日のように新しいクリエイティブが起こっていて、国内外で共同制作や出張公演をできるだけの人脈と高い交渉力を持っている優秀な職員がいて、高い評価も得ていて、学校や地域でもワークショップをしていて、広報やアーカイブもお洒落にマメにやっていて、制作ノウハウや政策提言も発信できちゃうなんて、本当に、本当に、うらやましいの一言に尽きる。

…のに、これだけやっても文化予算を削減しなければならないと言われているとなると、絶望した気分になります。問題は「何をやっているか」ではなく、単純に数字の問題なのだと。

目に見えない価値をどう測るのか?

10年前に比べて、新潟市の財源が10分の1に減った。だから、歳出を10分の1にすれば、財政も健全化するだろう。

この公式に沿って、全国の自治体で財政見直しが行われています。りゅーとぴあは、公開されている事業報告をもとに算出すると、事業予算は8年前のおよそ6割に減り、全体としての予算規模は市の財政状況と同じく下り坂となっていることが分かります(実際は助成金などの外部財源をもとに、一時的に予算規模が拡大している年度もあり)。

何がいけないんだ?公式によれば、今のところ健全化プロセスOKじゃないのか?

ノイズムの公式ページには、次のような声も寄せられていました。

海外(それも、ヨーロッパ、アジア、ロシア、南米、北米に渡る 広域に)に輸出される実の成るまでになった果樹を、切り倒す必要を感じません。それで得られるメリットよりも、この事業が15年かけて対外的に築いてきた信用や実績を水泡に帰すことの損失の方が計り知れません。

この事業が対外的に築いてきた信用や実績。これって、目に見えないけれどとっても大事な評価軸ですよね。信用や実績がなければ、何も始められない。誰も一緒にやろうと言ってくれない。

たくさんの関係者の才能と努力と尽力で積み上げてきたのであろう、信用や実績。これを金銭的な指標で測ることはできるのでしょうか。しかも、その指標を利用することは、今後ますます目先の利益が大事とされていきそうな世界で、意味のあることなんでしょうか。

アーティストの存在が、社会にとってどのような価値があり、その専門家集団を抱えることが地方都市の文化政策としてどのような意味があるのか。ノイズム15年目の節目に、どのような答えが出てくるのかに注目しています。

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