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悲しいコンサートをなくすために~「社会包摂」という考え方について

悲しいコンサート

以前働いていたコンサートホールで、客席誘導係をやっていたときのこと。その日は知的障がいと見られるお客さんが車いす席に座っていました。国際コンクールで優勝したての、新進気鋭のピアニストの公演。若さのしたたり溢れるような演奏で、疲れ知らずの彼は何度もアンコールに応えてくれ、最後の美しい曲を静かなフェルマータで終えようとした時でした。

「ぅあ~!!」音がまだ消え切らないうちに、感動に震えた声が、車いす席からもれました。

ピアニストはその瞬間、ステージから声の方をにらみつけて「チッ」と舌打ちをし、二度とアンコールには出てきませんでした。お客さんからは車いす席の人へのクレームの嵐。その光景はぞっとするほど悲しく、みにくいものでした。

「社会包摂」という視点

それ以来、文化や芸術は誰のためのものだろう、と考えています。静かにじっと観ていられる人、ルールに従って感動できる人(あの奇妙な「ブラボー!」の習慣)、お金や時間に余裕がある人、自由な移動ができる人。文化事業といわれるものの多くが、このような一部の人にのみ向けられているような気がしてなりません。

日本の文化政策の分野では、近年ようやく「社会包摂」という視点が取り入れられるようになりました。建築やデザインの分野では「インクルーシブ・デザイン」「ユニバーサル・デザイン」という視点が広く浸透しているかと思いますが、文化政策での社会包摂も同じような意味です。つまり、障がい・疾病、国籍、性別・性的指向、年齢、失業・貧困など、さまざまな理由でいわれなく差別され、自由な社会参加や安心した生活、自己肯定感を奪われることのないよう、社会のあり方自体を変えていこうとする考え方です。

この考え方を、私は上京進学して1年目でたたき込まれました。外国語を学ぶ大学でしたから、いつ自分が外国で「外国人」となってもサバイバルできるように、自分とは違う文化に出会い、なぜ違うのかを考え、相手の文化への想像力と理解を高めるための訓練環境が充実していました。

そんな環境に触発されて、学生時代はボランティアや社会運動にのめり込みました。東京や川崎・横浜の学校で、外国につながりのある子どもたちの日本語支援をしたり、原爆の被害にあったお年寄りの体験談を聞き書きしながら症状と向き合ったり、障がい女性と共にリプロダクティブ・ライツ(性と生殖の権利)を求める活動に参加したり。その中で、社会の大部分(マジョリティ:多数派・既得権益者)が見ている世界と、当事者(マイノリティ:少数派)が見ている世界に大きな隔たりがあることを、身をもって体験しました。

「社会包摂」ということばの仕組み

ところで社会包摂ということばは、日本語では「共生」とも置き換えられますが、英語では social inclusion です。「中に・内部に」を表す「in-」に対して、「外に・外部に」を表す「ex-」を付ければ、社会的排除 social exclusion となります。つまり、包摂と排除は表裏一体の現象なのです。

包摂と排除が起こる場所には、国家と法、地域社会やイエ制度でのしきたりなど、世界を形づくっているさまざまな仕組みが関わっています。その仕組みの中心にいる人たちはあらゆる権利を保障されている一方、社会の中心からはみ出した人たちが、仕組みから排除された形で存在しています。

たとえば、日本国籍がある/ない、障がいがある/ない、男/女、読み書きできる/できないなど、マジョリティとマイノリティを区別し、存在価値を判断する社会の仕組みがあり、私たちの認識もその仕組みに大きく影響されています。社会包摂も、社会的排除も、この仕組みの上で起こります。例えば、日本語が話せない人に対して「あの人たちは何をしゃべっているか分からない。何か不安だ」と感じ、仲間外れにすれば差別になるし、「何とかしてコミュニケーションしよう。理解しよう」と努力すれば社会包摂になります。

社会包摂は「社会的弱者支援」ではない

社会包摂と表裏一体になっている社会的排除をなくすには、まず、排除されている人たちに、他の大部分の人と同じ社会参加の資格を与えるというのが1つの方法です(女性参政権運動など。アファーマティブ・アクションと呼ばれる)。

このように言うと、「なるほど、社会包摂って社会的弱者の支援なんだね!」と言われることが多いです。結論から言うと、ビミョーに違います。

この点について、文化庁が九州大学と共同発行した「社会包摂×文化芸術ハンドブック」には、このように書いてあります。

日本の現状を見ると…マイノリティの人たちに表現の機会を提供することで満足する、あるいは、マジョリティの活動にマイノリティが加われるようにしただけで目標が達成されたと勘違いすることがあるようです。(23頁)

たとえば、外国人に自国の文化を紹介してもらうような国際フェスティバルなどは、一見すると多文化的で平和なイメージがありますが、外国人に対する私たちの見方や社会の変化を促せていない点で、社会包摂が実現できているとはいえない、ということです。

弱い立場の人たちだけが変わっても、大多数の人が変わらなければ、社会全体は変化しません。…マイノリティの人たちがエンパワメント(自己肯定感や自己効力感が高まる)され、マジョリティの人たちの意識が変化するという目標を設定しなければならないのです。(24頁)

一部の人だけが変わっても、社会全体は変わらない。中心とはみ出し部分の区別を生み出し、はみ出した人への排除を引き起こしている仕組みを見極め、その仕組み自体を変えていくことが必要なんです。

悲しいコンサートをなくすために

先ほどの文化庁のハンドブックには、文化芸術の定義が書かれています。

文化は、何が大切にされているか、何より何の方が大事にされているかという一連の了解事項ということになります。つまり、文化は価値に関する秩序体系を意味しているのです。(20頁)
芸術は、…それまで大切だと思われていなかった物や事柄を提示し、「ここに大事な価値があるから見てください」と人々に呼びかけるということです。…芸術には、ふだん見過ごされている価値を掘り起こしたり、自分が大切にしている価値を他の人と共有したりするという重要な役割があるのです。(20頁)

言いかえれば、文化とはすでにある社会の仕組みのことで、私たちの認識から作られ、その仕組みの中で私たちは世界を認識しています。芸術は、文化を受け継ぎ、見直し、作り変え、引き継ぐ営みの中で、私たちの世界の認識を変え、社会の仕組み自体も変えてしまうエネルギーを持っています。

悲しいコンサートをなくすために。ただ車いす席がそこにあるだけではダメだったのです。じゃあ、どうしたらいいのか――。ここから、私たちは「社会包摂」について考え始めるのです。

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