亡き母のレシピ本

1枚の写真に写るのは、家族4人と食卓のカレー。そこにいる母は、私が12歳の時に亡くなった。

料理上手だった母は、自分の病気を知って、料理の苦手だった父にレシピのノートを残した。私と弟が大好きなハンバーグや、たらこスパゲティ、それから、特製のカレーも。大学ノート1冊にびっしり、イラストと文字で書かれている。材料や作り方は、すべて母ならではの工夫が施されていたようだった。

ただ、母は絶望的に絵が下手だった。立体感はなく、完成形はすべて円のなかに紙吹雪が載っているように見えた。
さらには、書かれている調味料の分量が適当すぎた。彼女自身は経験で「これくらい」で済むのかもしれないが、それが大さじ1なのか小さじ1なのか、よくわかっていないのだろう。「適量」「たっぷり」「ドバッと」という表記ばかりで、解読に苦労した。

父は、母の味を子どもたちに食べさせようと、何度も大学ノートを開き、母特製のレシピに挑戦した。ただ、どれもこれも美味しくなかった。食べられないことはないのだが、母の味には似ても似つかない。
そのうちに、分量がしっかり書かれている分厚い料理の本を買って来て、そこから作るようになった。そのほうがよほど美味しかった。

父の残業が増え、夕食を作れない日が続いた。しばらくはレトルトや冷凍もの、市販の惣菜などで済ませていたが、やはり飽きがくる。ある朝、私が作ってみようかと父に言うと「じゃあ、今日は試しにお願いしようかな。大変だったらまた考えよう」と言われた。

学校の行事でカレーは作ったことがあった。母の手伝いもしていた。ただ、母の手順は正直覚えていない。それでもやはりカレーライスが簡単そうなので、市販のルウで普通に作ることにした。

夕飯の支度は楽しかった。剥いて、切って、炒めて、煮る。母の手伝いで一連の手順は慣れていたし、ルウの箱に手順が細かく書かれていて、難しいことはなかった。その日から、私は毎日夕飯を作ることになった。

最初は父の買った料理の本を見ながら作っていたが、徐々にパターンがわかってくる。どうやったら旨味が出るか、この分量でどれくらいの塩っけが必要か。少しずつ、ありものでやりくりできるようになり、いつからか本をまったく見なくなった。

毎日夕食を作りながら、私は高校生になった。

「俺、もう少し長く一緒にいたいんだよね」
ユウと一緒の帰り道、彼が思いつめたように言った。
「え」
「なんかほら、いつも夕飯前っていうか、夕飯準備前には帰っちゃうわけじゃん」
私は高校生になってユウと付き合うようになっても、夕飯の支度をするために必ず6時半には家に着くようにしていた。
「うん」
「だから俺考えたんだけどさ。んーと、夕飯食べに行っちゃだめかな?」
「うちに?」
「そう。ダメかな」
「えっいやまあ、ダメじゃないけど」
「お父さんとか、弟さんとも話してみたいし」
「うんまあ、大丈夫だとは思うけど」
「俺、作るの手伝うよ」
「ほんと? じゃあ、今日来る?」
「え、今日?」
突然決まった、彼氏の我が家来訪。そのままスーパーで買い出しをして、家に連れて帰った。

家に着くと、弟はまだ塾から帰っていなかった。
「お父さんはいつも遅いから、会えないと思うけど」
当たり障りなく、カレーを作ろうと思っていた。彼に野菜の切り方を伝えようと、図解されている料理の本を探した。小さな本棚はリビングの隅に置いてある。同じ並びにふと、大学ノート。ずっと見ていなかったけど、お母さんの下手な絵と、適当な分量で書かれたレシピ本だ。どうしてそんな気持ちになったのか、4年ぶりに手に取り、パラパラとめくった。見ていると、当時はまったくわからなかった調味料の分量が、だいたい想像つくようになっていた。

カレーのページを開いた。基本は市販のルウを使うが、炒める時にスパイスを入れたり、仕上げにジャムを入れたりする。ひととおり読んでみて、わからないところはなかった。スパイスもちゃんと、家にある。今なら、お母さんのカレーが作れる気がする。

ノートの最後に、写真が挟まっていた。家族4人と、食卓のカレー。このカレーが、作れるのかも。

ノートをキッチンに持って行って、手順通りに作った。
「これね、お母さんが残してくれたレシピ本なの。今日はこれで作ってみる」
ユウには市販の料理本を見てもらい、指示した通りに切ってもらった。いちょう切り、輪切り、くし切り。

塾から帰ってきた弟は、自分の姉と知らない男がキッチンに立っているのを見て驚いていた。
「はーーーーっ!?」
って、叫んでいた。
付き合っていることは説明できても、なぜ夕飯を一緒に食べることになったのか、なぜ手伝ってもらっているのかは、うまく説明できなかった。

サラダ用の野菜も切り終えると、もうユウに手伝ってもらうことはあまりなかった。ダイニングで待っていてもらうと、着替え終わった弟も戻ってきた。私は2人を放っておいたけど、2人ともサッカーが好きで話題には困らなかったみたい。

父はまだ帰っていなかったけど、いつもの通り食べ始めることにした。でも、皿に盛り付けて並べたところで、なんと父が帰ってきた。
「ただいまあ。あ、えっ」
父は驚きを隠すのに必死だった。必死で真顔になって、そのあと作り笑いをして「あ、えっと、いらっしゃい」とだけ言った。
私は彼を紹介した。弟に説明したのと同じように。
「すぐ食べるでしょ?」
「そうだね、着替えてくる」
私たちは久しぶりに3人揃い、初めて1人を加え、夕食をとった。
「いただきます」
ひとくち。
「ん」父が言った。
「お姉ちゃん、これ」弟が言った。「お母さんの」
味って不思議だ。母が亡くなる前、あの写真のなかに、突然タイムスリップした。ユウだけを置いて、父と弟と私で、別の場所に飛んでしまった。気がつくと涙があふれて、ぽたりと頬を伝った。
父も弟も、涙ぐんでいた。

ユウは何も言わなかったけど、わかっていたんじゃないかと思う。それから私たちは母の話ばかりして、ユウはそれを楽しそうに聞いていた。

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