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額の合図

「いま家?」
 それは、同じプロジェクトで働いている女の先輩から届いたメッセージ。俺は何の予定もない土曜日に、自宅で缶ビールを開けてソファに座り、録画したバラエティ番組を見ていた。先日合コンで知り合った女の子に連絡してみようかななんて思って、スマホを手に取ったところだった。
 メッセージの送り主は、子どもを育てながらもいつもパリッとしていて、だいたい優しくて、ときに怖い桜川さん。アラフォーだと聞いているがもう少し若く見えるし、まあ綺麗だ。面長でアーモンド型の目をしていて、鼻がすっと通っている。髪の毛もツヤツヤ。怖くなければ最高だけど、怖いからこそプロジェクトが回るとみんなが思っている。俺もあと10年たったら、あんな風に立ち居振る舞えるんだろうか。
「はい、家です」
「家ですけど」と書いてから、「けど」がなんか生意気だなと思い、消してから送信した。家にいるけど、何の用だろう。先週ローンチしたサービスが、うまくいってないとか? 俺はビールを飲むのをひとまず止めた。
「きょう、とめてくれない?」
 ああ、やっぱりそういうことなのか? あのサービス、始まったばかりなのに止めるのか。止めるとしたら、今からエンジニアさんに連絡して、どれくらいで対応してくれるだろう。電話でつかまれば、2〜3時間ってところか。
 それにしても、詳細を聞かないことには始まらない。俺は桜川さんの電話番号を検索し、電話をかける。
「もしもし」
 ガヤガヤと音がする。外にいるみたいだ。繁華街かなんかで飲んでいたところに連絡があったってことなんだろう。
「なんかあったんですか? すぐ止められるか、エンジニアの柳さんに確認してみないと」
「どういうこと? 柳さん、君と付き合ってんの?」
そういって桜川さんはケタケタ笑う。ちなみに柳さんは男だ。
「は? 酔ってるんですか? サービス止めるんですよね? 何があったのか教えてもらわないと」
「……」
 電話の向こうで彼女が沈黙してる。
「あの、桜川さん? 止めてくれっていったの桜川さんでしょ?」
 俺はイライラし始めていた。
「あーーーー!!」
 急に電話口で叫ばれて驚いた。なんだよ、酔っ払い? 桜川さんって、そんな風に酔う人だと思っていなかった。
「あのね、そうじゃないの。『とめる』違い」
 そう言ったかと思うとまたケタケタ笑った。
「サービスじゃなくて、私を泊めてほしいの」
 俺の頭には、桜川さんがカチッと停止しているイメージが浮かんだ。

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 最寄り駅まで桜川さんを迎えに行き、俺の家まで並んで歩いた。住宅街だから街灯が少なくて、車の通りもほぼない。飲んできたと思しき人たちがパラパラと歩いているくらい。
 歩道も車道もないくらいの細い道の真ん中を、2人で並んで歩いた。桜川さんは俺が思っていたよりもずっと小柄で、大きなトートバッグを肩に下げ、小さな肩をすぼめるようにして、コートに両手を突っ込んで歩いていた。
 桜川さんが小さく見えたのは、スニーカーを履いているからだった。いつもはヒールのあるパンプスで颯爽と歩いているから、今の状況とうまく繋がらない。いつも綺麗に下ろしている髪も、今日は後ろで1つに結んでいる。
 何度もくねくねと曲がる道のり。いちいち曲がる方向を説明しないでいたら、体が何度かぶつかった。
 さっきの電話で「夫と喧嘩しちゃって」と桜川さんは言った。桜川さんの両親はもう他界していて、家を出ると泊まるところがないらしい。そんな状況でも出てきたっていうのは相当なんだろう。
 しかも財布を忘れてしまったんだとか。サザエさんかよ。
 同じプロジェクトの滝下さんに連絡したけど、今日は彼氏がいるって言われたらしい。滝下さん、彼氏いたのか。なんか少し残念な気がした。
「ほんとごめん。床で寝られればいいから」
「ソファあるんで、大丈夫ですよ」
 そう言ってから、最後に誰かを泊めたのはいつだっただろうと想像する。3年前に別れた彼女が先日ふらりとやってきて、泊まっていったっけ。彼女がベッドに寝て、俺はソファで寝た。あれは何だったのか。女というのはよくわからない。彼女とは、もう何かをする気になれなかった。別れるときに散々嫌な思いをしたから、もう欲情しなかった。それでも泊めたのは、終電がないと言っていたから仕方なくだ。
 歩きながら、桜川さんとセックスすることを想像した。「もしそうなるとしたら」、まずはきっとあの細い肩を抱きしめて、優しくキスをするんだろう。仕事で厳しい人は、ベッドですごくかわいいんじゃないだろうか。残念ながら俺はそういうタイプと付き合ったことはないが、学生時代に年上の社会人と付き合っていた同級生がそんなことを言っていた。桜川さんは、今も旦那さんとそういうことしてるんだろうか。子どもができるとなくなる人は多いって言うけど。

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 狭い8畳程度のワンルーム。ベッドとソファを置いてあるからギチギチだ。
「そんなに散らかってないね」
 桜川さんが上から言う。
「あ、その辺座ってください」
 ソファを指差して言った。彼女はコートを脱いでくるりと丸め、トートバッグとともに部屋の隅に置いてから、ソファでなく床にちんまりと座った。
 まだ、10時半。大人が寝る時間でもないだろう。気まずいのでテレビのスイッチを入れた。
「ビールしかないけど、飲みます?」
「お、いいね」
 冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、テーブルの上に置いた。
「グラスに注がないの?」
「え」
「その方がおいしいよ? 私が洗うからさ」
 仕方なく、グラスを2つ出した。
「じゃあ、バカ旦那に、かんぱーい」
 グラスに注いだビールを2人で飲む。テレビを見ながらグラスを傾ける桜川さんを、ちらりと横目で見た。前から思っていたけど、桜川さんはビールを実にうまそうに飲むんだ。
 ……あ、目があった。
 桜川さんはニコっとした。これまで見たこともないような、やさしい表情だった。
 よく見ると、いつもより化粧は薄いし(というよりおそらく取れている)、いつもより年相応に見える。
 そして、いつもよりずっとかわいかった。
 俺はなにか、期待してしまう。

 だけど結局、何もなかった。なぜなら彼女は早々に寝てしまったから。ソファに横になり、「ともくん、そんなに怒らないで」と寝言を言っていた。ともくんっていうのは、旦那さんの名前なのかな。
 俺はソファの前に座り、彼女の前髪を少し横によけて、額にキスをした。どうしても、そうしたかったから。

 朝起きると、もう彼女はいなかった。スマホにメッセージが届いていて「今日はありがとう」と入っていた。グラスはちゃんと洗ってあった。

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 月曜日、駅から会社へ向かう地下道を、何百、何千といるビジネスマンと同じ方向に歩いていると、
「おはよー」
 後ろから滝下さんが声をかけてきた。彼氏がいるって本当なのかな。歩きながら、何気ない振りをして聞いてみる。
「そういえば、一昨日桜川さんから連絡ありました?」
「え、ないけど? なんで? なんかあった?」
「あ、いや、なければいいんです」
 桜川さんが滝下さんに連絡したというのは、嘘だった。最初から、俺の家へ泊まるつもりだったんだ。それって、どういうことなんだろう。

「おはよう! 会議遅れそうだからお先!」
 桜川さんが走りながら俺と滝下さんを抜かしていった。高いハイヒールに、ひざ丈のスカート。ヒールで走るのに慣れていて、さまになっている。ストレートの髪が左右になびく。
 あ、立ち止まった。
 前髪の上からおでこを触り、少し顔をこちらに向けたかと思うと、また前を向き走って行ってしまった。
「忘れ物でもしたのかな」
 滝下さんは言う。
 だけど、俺はわかってた。額にキスをしたとき、彼女は目を覚ましていたんだ。
 だからどうというわけではない。2人の関係が始まるわけでもない。ただほんの少しだけ、何かが通じ合ったような。この後どうなるかなんてわからないけど、たまにはこういう気持ちもいいんじゃないかな。


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