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映画「愛と法」を見て 〜法編〜

2019年9月28日     東京女性映像祭で上映された映画「愛と法」をパートナーのムンチャン(仮称)と見に行きました。私にとって、気になっていて見たいな、と思っていた作品でした。

「弁護士として共に事務所を構える男性カップルの日常と、2人が関わる訴訟にまつわるドキュメンタリー映画」と要約するには余りある、タイトルでもある「愛と法」が、あちらこちらでメッセージを放つ映画でした。

映画の中では、法と闘い、権利や自由を手にしようとしている人の姿がありました。

表現の自由と闘うアーティスト。君が代斉唱時の不起立、という思想の自由と闘う教師。そして、家庭の事情から無国籍者となっている(いた)人達。そして、映画の中では直接触れられることはなかったけれど、同性婚。

ここからは、わたしの見解です。

この日本で日常を生きている中、

「わたしは法に守られている、そして、法を守っている」

そんなことを常に意識しながら生活をしている人は、実際にどれだけいるのでしょうか?    わたし自身、無自覚な1人でもありました。

ただ、角度や視点を変えてみると、現実として、

「法という障壁で不自由を強いられている、権利を剥奪されている人もいる」

法、という壁と闘い、権利や自由を得ようと奮闘している人、変化を起こそうとしている人、も少なからずいる、のです。

権利や自由を獲得するために、ましてや統治をするために法があるのではなく、自由や権利を行使するために法はある。

当たり前の様に見えることですが、わたし、は、この映画を見て改めて実感しました。

もしかしたら、ですが、この映画を見て闘っている方々を見て、「レアケースだから」「マイノリティだから」私の日常とは関係ない、特別な出来事、と思う人もいるかもしれません。

ちょっとだけ待ってください。

わたし達(敢えて大きな主語を使います)は、法を守ることにも、法に守られていること、にもあまりにも無自覚なんじゃないのかな??

無自覚が悪い、と言いたいのではありません。守られていること、は、当たり前の様でいて当たり前ではない、かもしれない。悪いことをしたから守ってもらえないんだ、ではなく、やむなく法の前に呆然と立ち尽くしている人、もいるのです。

自覚を持つ、というか、気づいてみると、家を出て一歩外に出て、横断歩道を渡るだけでも、もしかしたらスマホを手に取って情報をインプット、アウトプットする時に、少し違う感覚が生まれる様に思います。これは、映画に出てくる無国籍者の方々のケースを見て感じたことでした。知ること、は、大切です。

少し話は反れますが、

きめつけ、固定観念、は、自由の対義にある。

私はそう思います。しかしながら、自由や権利を蓑の様に振りかざして、きめつけや固定観念でものごと言いたい放題だったり、ミスリード、ネガティヴキャンペーンをしてみたり。そんな矛盾しまくった空気が、SNS然り、メディア然り、に感じられます。生まれるのは、分断やいじめられない様にするための自己防衛に過ぎない攻撃の仕合い。。。疲れます。。。上記の自覚を持ちませんか?、と問いかけてみたくなります。

話は映画に戻りますが、愛、について、は、次のnoteに続けることにします。(続く)

 #愛と法  #映画  #感想 #分断  #自由 #東京女性映像祭  

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