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「愛と法」を見て 〜愛編〜

映画「愛と法」を見て感じたことの続きです。愛、に重心を置いた視点ですが、愛と法は分断されずに、接続されている、という観点から書きました。

この映画では、直接、同性カップルであるお2人からの同性婚への言及や見解が語られる場面はほぼありません。一緒にご飯を食べたり、洗濯をしたり、ゴロゴロしたり。映し出されていたのは日常です。

直接的なメッセージがなかったからこそ、2人の行動や姿から強く伝わるものがありました。私の目には、まさに夫夫にしかうつりませんでした。

ただ、同性婚が認められていない日本では、夫夫である2人も現時点では、「法における婚姻関係」の外側にいます。そのお2人が弁護士として法と向き合う仕事をしていることの興味深さ、もこの映画のメッセージの様に感じました。

と、今、この文章を書いている、わたし、(女性)のパートナーは女性です。一緒に暮らしています。なので、映画の中で夫夫の2人が過ごしている日常風景には、既視感を感じるシーンもありました。ご飯を食べたり、洗濯をしたり、ゴロゴロしたり。それは、わたし、が、夫夫の2人がセクシャルマイノリティーだから、ではありません。

わたし、は、ですが、自分がセクシャルマイノリティーであることを常に意識しながら日常を送っている訳ではありません。たゆまぬ日常を、愛する人と過ごしています。パートナーは、パートナーであり、同性であることは、わたし、には側面です。

映画の中の夫夫も、なんというか、日常は日常で、愛する人と共に生活をしている。それ以上でもなく、それ以下でもないカップルの姿。

ただ、この様な見方もあります。

セクシャルマイノリティー、という視点からスポットライトを当てると、映画の主役である2人は、かなりスポットライトが当たったところにいる様に思えます。

パートナーがいて、カミングアウトもしていて、一方の親や家族とのコミュニケーションも取れている。(ここに至るまでの苦悩があったことは想像に難くないことも前提で書いています。)

セクシャルマイノリティーという視点のスポットライトの外側には、そうではない人達もいます。そのことも、もしかしたらですが、汲み取れるメッセージなのかもしれません。映画の中で、セクシャリティに悩み命を絶った方のエピソードに際し、弁護士であり、1人のセクシャルマイノリティーでもあり、人間である弁護士さんが涙を流していた姿は印象的でした。セクシャリティに対するバイアスが、少しでも柔らかくなってほしい、としかいえません。

ところで、ジャーナリストの堀潤さんが先日開催していた個展のタイトルが、「分断ヲ手当スルト云フ事」でした。「愛と法」の中に出てきた方々の多くが、法による分断との闘いを強いられていました。そんな中で分断に手を当てているのは、弁護士夫夫でした。けれど、その弁護士夫夫も「法の下の婚姻」の前では分断の渦中にいます。

愛、の前に立ちはだかる法。法解釈に愛は変革を起こせるのか。個人的には、道のりが長くても起きてほしいです。

ただ、この話は、セクシャルマイノリティーに限らないと思っています。たまたま、私自身がセクシャルマイノリティーだから、フォーカスが絞られているのかもしれません。

正直、感想を言葉にするのが難しい映画でした。だからこそ、多くの人に見てほしいな、と感じました。もし、嫌悪感を抱いたとしたら、その源はなんでだろう?、と考えるきっかけにもなると思います。

他にも、「家族」ってなんだろう?、や、フォーカスの合わせ方で見えるマイノリティーの概念、など、問いかけられているメッセージが沢山ある映画でした。見られてよかったです。

 #愛と法 #映画 #感想 #愛 #分断 #セクシャルマイノリティー  #東京女性映像祭 



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