ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック 1


1989年、「ヘルプレス」クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング

1989年1月7日、福岡に住んでいた兄の部屋で明け方に目が覚めた。なんとはなしにテレビを点け、過去に経験したことのない深刻さのある画面を見た。天皇が崩御されるかもしれないとニュースは伝えていた。困ったな。今日、東京に戻ることになってるのに。当時、ぼくは大学2年生で、翌日はディスクユニオン(御茶ノ水3号店)にバイトで入る予定になっていた。ほどなくして、画面はさらに硬直し、ひとつの時代が終わったことを伝えた。昭和64年は6日と6時間半しかなかった。悲しみやらを感じる筋合いもないけれど、ぼんやりとした気分で新幹線に乗り込んだ。翌日、ユニオンは営業したんだっけ? よく覚えてない。

大学では『マイルストーン』というミニコミを出すサークルに入っていた。4月1日に、おかっぱ頭でメガネをかけた新入生が入ってきて、おまえが“寝顔化石”かと聞かれた。ぼくが1年生のときに書いた文章のペンネーム(そのとき限り)がそれだった。先輩から(飲み会で酔いつぶれた)ぼくの寝顔が微動だにしない化石のようだと言われたことがもとになっていた。そのころは、名前なんてどうだってよかったし、文章を書いて生活する未来があるとも真剣には考えていなかった。

寝顔化石のことを知っていた後輩は学年は2個下だが、彼は一浪なので年はひとつ違い。最初の受験の年、京都から大学へ下見に来て、そのとき売っていた『マイルストーン』を買ったのだという(寝顔化石が掲載されていた号)。会ったばかりなのに、4月1日その日のうちに何年も前から知っているようにふたりは話をした。ローザ・ルクセンブルグのどんとが始めたBO GUMBOSを知ってるかとか、エレファントカシマシはすばらしいとか。彼はそのままサークルに入り、翌日も翌々日も会い、「松永さん、このサークルつまんないから、ふたりでなんか作りましょうよ」と言い出した。そのころ、彼はまだ敬語だったけど、数日後には、ぼくは「まっちゃん」と呼ばれ、お互いにタメ口になる。そして、ふたりで手書きコピーの雑誌を1日で作った。

雑誌名は『少年ヘルプレス』。本文8ページで表紙はカラー紙。一冊10円で、学内のあちこちで売った。スピードが大事ということで、翌日には2号、3日後には3号を出した。やがて、もうひとりサークルから川ちゃんという書き手が加わり、3人になった。「なにをやってるんだ」と笑ってみてくれるひともいたが、ぼくの同級生は後輩たちと急にへんなことをしだしたことを冷ややかに見ていたんじゃないかと思う。前年、次期編集長選びで落選したぼくが、はけ口にしているんだろうと思っていたひともいただろう。

だけど、じっさいはそんな不満はあんまり関係なかった。彼がぼくを強い言葉でけしかけたという部分も大きいけれど、この組み合わせならなんかおもしろいことができそうな気がしたのだ。出会ってまだ二週間も経ってないのにミニコミをはじめたのも笑えるけど、「ヘルプレス」という言葉で一致したのは不思議だった。「ニール・ヤングのどこがいいのかわからないよ」と同級生に言われたことがある、って話を彼としたからかもしれない(映画「いちご白書」からの影響もあったかも)。そりゃわからないよね。1989年はバブル真っ最中で、助けを求めて絶望するなんて考えてるひとはあんまりいなかった。

『少年ヘルプレス』は1ヶ月半続き、7号まで出た。4人目のメンバーが入りそうになったころ、急におもしろさが失われた気分になり、8号は作られなかった。しかし、その後も彼との遊びは続いた。

5月には友人2人をそそのかし、車で2週間ほど九州まで旅に出た。京都や神戸のレコード店のおもしろさを知ったのは、その旅がきっかけだった。10月には「ローリング・ストーンズのシェイ・スタジアム公演を見に行く」という理由で、ふたりでニューヨークに行った(彼が先に。その旅で、換金したばかりのトラベラーズ・チェック(500ドルほど)をホテルで盗難される羽目に遭い、落ち込んだぼくはホテルで一日中ふさぎこんでいた。そのとき、ドアがノックされた。中華デリでテイクアウトした晩飯を持った彼が立っていた。

その後、元気をなんとか取り戻すと、作ったばかりのクレジットカードでキャッシングができることを発見したふたりは金をめいっぱい引き出しまくった。表示されるメッセージ「GET CASH!」はふたりの流行語になった(そのせいで帰国後に大借金を背負う)。ひと足先に彼は帰国し、ぼくはひとりでマンハッタンのハロウィン・パレードを見た。

帰国後、アパートの廊下にあった共用電話のベルが鳴った。電話の主はクレジット会社で、週明けまでに超過して引き出した数十万円を払い込むように、との連絡だった。頭を抱えた。そして、今度は自分から電話をした。当時つきあっていた彼女の番号。しばらく呼び出し音がつづき、やがて彼女が出た。好きなひとができたのでおわかれしたい、という内容のことを彼女は淡々と語った。

部屋に戻って、畳の上に寝転がった。旅の思い出も消し飛び、疲れ果て、気力ゼロ。今日はだれもドアをノックするひとはいない。あとでわかったことだが、おなじころ、先に帰国した彼は、よその学祭のライヴを見ていたとき、横暴さを注意され逆上した体育会系の野郎どもにボコボコにされているところだった。

1989年、ぼくらは少年ヘルプレスを地で生きていた。


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