ぼくの平成パンツ・ソックス・シューズ・ソングブック/B面 30-28

1991年、ジョージ・ルイス「世界は日の出を待っている」

大学5年生になった春、父親が緊急で上京した。正確にいうと、父は家業の関係でよく東京に来ていたのだが、ぼくとはひさしぶりに直接対面することになった。

理由は、ぼくの2度目の留年(つまり6年生)が決まったこと。すでにぼく自身は留年することは分かっていたが、ご丁寧にも大学から実家に通知が行くらしい。ぼくの最初の留年の通知は、前の年(1990年)、両親が銀婚式を祝う相談をしていた矢先に届いた。そのときも電話越しにそうとうな剣幕だった記憶がある。それもあって、しばらく帰省もしないし、父とも会わないという日々が続いていたのだ。

しかし、2度目ともなると堪忍袋の尾が切れるのも仕方ない。ぼくの2歳下の弟も一緒に中野に呼び出された。弟は卒業したら実家を継ぐことが既定路線になっていたが、彼には彼なりの東京に対する夢があり、少しでも東京に長くいたいという主張をつねづねしていたのだった。その作戦の一環だったのか、彼の大学での成績も卒業がピンチになるほどのものだったらしい。

父とは、中野に住んでいた弟のアパートで昼間に待ち合わせした。現れた父は意外にも落ち着いた物腰で、「メシでも食いに行こう」ということになり、弟の案内で中野ブロードウェイにほど近いトンカツ屋に入った。

二階の個室にしてもらい、父の向かいにボンクラ息子ふたりが座った。お茶が運ばれ、それぞれに注文をした。それ以外は会話もなくシーンとしたもの。店員さんがドアを閉めて階下に向かうと、父はちょうど持っていた新聞を固く丸めて、ぼくと弟の頭をそれぞれパコーンと痛打した。目に見えない炎がメラメラっと父の眉間から立ち上った気がした。そして沈黙。

もともとぼくら子どもたちの前では口数のすくない父だった。この日も多くを語ることはなかった。ネチネチと言葉責めされるようなことはない代わりに、沈黙が重かった。やがて、その静寂を破るようにランチのトンカツセットが運ばれてきた。しかし、その後はまたしばし沈黙。父が箸をつけるのを見て、ようやくぼくらも動き出す、といった具合。

やがて皿の上のトンカツもすくなくなってきたころ、ようやく父が口をひらいた。

「おまえはヒッピーとかホッピーとかになるつもりか」

不意を突かれて、口に含んでいた白米を噴き出しそうになったが、なんとかこらえて飲み込み、「そんなものにはならん」と返事した。「じゃあ、なんになりたいのか?」と父は続けて聞きたかったのかもしれない。ぼくも心のなかで「おれはなんになりたいのか」を自問した。

だが、再び沈黙した父から出た言葉は「ふたりとも、大学は卒業しろ」だけだった。いちばん困る問いに対する答えを免れて、ぼくは安堵した。どのみち、あのときのぼくに、なにか確かなことが答えらえるはずもなかっただろうけど。

ランチを終えると、父はあわただしくお得意さんへのあいさつに出かけていった。ぼくは弟と顔を見合わせて、安堵のような、ため息のような、声にならない声を出した。じつは、その時点ですでに卒業するには7年生までかかるだろうと、ぼくには分かっていたのだ。

「来年、もうひとヤマあるな」と弟に言うと、「おれもよ」と答えた。弟は弟で、東京にとどまるためにわざと留年するという作戦を本気で考えていた。

やがて、ぼくは結局7年かけて大学を卒業し、弟は半年だけの変則的な留年を実行したものの、最後は父の思いを汲んで実家に帰っていった。

2001年、ぼくがハイファイ・レコード・ストアに職を得たころ、弟がふたたび上京してくることになった。初めての海外買付から帰ってきたときに、実家が祖父の代から続いた家業を畳むというニュースが飛び込んできた。地元にいても仕方のなくなった弟は、とりあえず東京に戻ることを選択。しばらくのあいだ、ぼくの家で居候をすることになったのだ。

自分の状況のひどさもあって、実家がまさかそんなことになっていたとはつゆ知らず。とまどいのなかで、弟を受け入れた(その後、弟がしばらくパチプロの手伝いをしていたことは前にも書いた)。

この年の春、父があらためて家業の清算についてぼくに説明するために上京してきた。弟もその場に同席した。あの中野での叱責から、ちょうど10年が経っていた。

新宿の居酒屋の個室で、あの日のように面と向かったぼくらに対し、父は「すまん」と頭を下げた。父がぼくらに頭を下げるなんて想像もしていなかった。むしろ学生時代にさんざん迷惑をかけたのはこちらじゃないか。

その日は、みんなで酒を飲んだ。ビジネスホテルに泊まる父と新宿駅で別れるとき、山手線の階段を上がっていく父の姿が見えなくなった直後、弟が人目もはばからず泣き出した。声にならない嗚咽をあげていた。

「親父が、はじめておれに『すまん』って言うた。そんなこと言わんでいいのに」と、弟はしゃくりあげながら泣きに泣いた。ぼくも泣きたかったのかもしれないが、この夜は弟をなぐさめる側に。平日の夜のごった返すコンコースの片隅で、ぼくらは15分くらい立ち尽くしていた。

会社を畳んだ父は、自分が引退したらやると決めていたことを実行に移した。それはレコードを聴くことだった。古いステレオはもう壊れていたのであたらしくミニコンポを買い直した。買付に行くぼくに「ジョージ・ルイスか、ファイヤーハウス・ファイヴ・プラス・トゥーのLPを買ってきてほしい」とリクエストがあった。どちらもデキシーランド・ジャズの有名な人たちだ。

実家にいたころ、会社の忘年会や社員旅行で父が石原裕次郎やジェリー藤尾を歌うのをよく聴いていた記憶がある。「あれは社員の人たちに溶け込むためにわざとああいうのを歌ってたのよ」と母から聞いたのは、ぼくが東京に出てからだった。古いジャズの10インチも秘密の隠し棚にごっそり見つけた。いつか引退したら聴くと決めて、何十年も触らずにいたんだそうだ。

ジョージ・ルイスの『アット・オハイオ・ユニオン』が父のいちばん好きなレコードだった。何年か前、父に連れられて行った地元のジャズバーで、持参したCDをこの店のスピーカーでかけてくれとリクエストをしていた。レス・ポール&メリー・フォードのヴァージョンでぼくは知っていた「世界は日の出を待っている」が人気のアルバムだそうだ。

もしも家業が続いていたら父は生涯引退なんかしなかっただろう。そして、ぼくらと一緒にジョージ・ルイスを聴くことなんかぜったいになかっただろう。家業がなくなったのは残念だったけど、こういう夜もあるのなら、あながちわるいことばっかりじゃないよね。

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この連載が書籍化されます。2019年12月17日、晶文社より発売。


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