牧の自己犠牲は”正しい”、けれど、ずるい。

※私は林遣都氏が牧を演じてくれたことに、心から感謝しています。
※林遣都氏以外の牧は考えられません。
※本稿は、林遣都氏の牧解釈を否定するものではありません。
 が、そう取られてもおかしくはない表現をしています。

牧の自己犠牲精神は、愛されていることによって表出する、彼のエゴだと思う。
牧は、愛を知る人だ。恋を、全力でする人だ。
だからこそ、愛することで傷つくことも、愛する人が傷つく辛さも知っている。
しかし、牧が今一歩自己犠牲仕切れない(と私が思う)のは、自己犠牲をすることが愛する人への思いやりではなく、自己保身の面もあるからだ。
自己犠牲はそうすると決めた者にとっては、苦しみから一足先に脱せられる方法でもある。
「あなたが幸せなら」と言えるのは、苦しみの渦中から抜け出したからこそ言えることだ。抜け出すと決められた分、楽になっているはず。自己犠牲することで、これ以上傷つくことからは逃れられている。(少しだけだけど)

問題は、逃げられず渦中に残された人だ。6話の春田のように。
牧は自身をこう言った。
「そんなにきれいな人じゃない」と。
牧は自己を犠牲にできるほど春田を愛しているくせに、春田を渦中に置き去りにした人なのである。
それは、正しく、卑怯で、切ない。
とても人間らしい矛盾と弱さを抱えた、愛を知る人だ。
春田を愛しているから、春田が大事だから、春田を傷つける自分を遠ざける。それが春田を傷つけるとしても。矛盾のようでいて筋が通っている。要は、春田しか目に入っていないが故の、論理的思考が働いていない、正に恋は盲目状態での暴走である。

しかし牧のこの自己犠牲精神(と便宜上呼ぶ)は、牧を愛する人にとっては、とても悲しく、寂しいことだ。
だから私は、牧の自己犠牲はずるいと思う。正しくて、ずるい。
そして、牧が牧である以上、それは取り除ける様な特性ではない。
ただ、春田が牧を愛したことによって、これから少しずつでも、自己犠牲をしなくて済むようになると願いたい。
牧の自己犠牲は、春田を傷つけるものであり、春田が牧を愛している以上、牧が自己犠牲をしなくて済むんだと、牧が気付いてくれることを、私は心から願っている。

【牧の戦術的撤退】

牧が好きな人と幸せになることをどこか怖がり、相手の状況や想いを慮ってきた故に編み出した、「戦術的撤退」(BH時、6話、劇場版同棲解消)は、牧なりの精一杯の自己防衛だし、納得も理解もできる。自分の好きな人も、自分自身をも守る術として、牧の中ではその時取れる最善策だったのかもしれない。でも、どうだろう。牧は自己犠牲で、守れたのだろうか。自分を、春田を。
本当に、牧の自己犠牲は、相手を思いやって自分を殺しているのだろうか?
私はどうにもそう思えない。
春田と相対した時、自己犠牲、といえるほど牧の自我(エゴといっていい)は果たして消失しているのだろうか。
牧の自己犠牲は、自己保身を隠せていないのだ。なんてかわいいんだ。
しかもその自己犠牲で物事収まったかというと別にそうでもない。
だってさ〜〜〜武川さんも春田も、あんなに夢中にさせておいてそりゃないよ牧くんよ〜〜〜そりゃ、去られた側からしたら、忘れられなくなっちゃうよ〜〜〜と6話後はのたうちまわったものだ。

勿論、牧の行動は、牧が春田を好きだからこその行動だとは分かる。
でもちゃんと話さず自分がいっぱいいっぱいになって、自分も春田も傷つけちゃうなんて、牧は詰めが甘い。

牧が「深くなればなるほど」不安になり、自分より相手の幸せが大事、として身を引くのは、恐らく牧が同性愛者として生きてきて培った自己防衛方法なのだと思う。
だが、身を引くことをできないくらい牧に夢中になった春田からしてみれば、「引いた」(逃げた)牧は理解できない。そりゃそうだろう。春田は、分かり合おうとしているからだ。
6話でも「ちゃんと言ってくんなきゃわかんねぇよ」と言い、劇場版でも「結婚するなら~」という一連の発言がある。春田は、牧を理解しようとしている。それを突っぱねたのは牧だ。
突っぱねたのは、牧が「ちずとの方が春田はお似合いだから」と春田の言を無視したり、「仕事で大変な自分を分かってくれない」と思い詰めたからだ。

春田への感情と自分の中の理性がぶつかった時、牧は、自分の感情=心を押し込める。それは誰もができることではなく、相手を思いやるが故の究極の愛情、とも取れる。理性が、思考が、心を抑えるなんて。春田を対部長などで挟む時、凶暴になる彼(屋上キャットファイト、サウナ)からしたら不思議に思えるが、あの狂犬ぶりこそ彼の根源的な剥き出しの感情であり、理性をぶっ飛ばした闘争本能だ。しかし、春田と対一になってしまうと、途端に理性が出る。(隠せてない時も勿論ある。デートとかきんぴら橋とか)夢とか結婚とか仕事とか世間体とか、いろんな価値基準を持ち込んで、自分の感情を押し込めようとしてみたり、結局押し込めなくて暴走したりしてる。(冷蔵庫キスなんて最たるものだ。言い返せないから強引にキスするなんて、論理的思考全くできてないな!?!?!)
なんで牧は、春田の前で理性を前面に押し出すかって、春田の前ではかっこつけていたいからだ。
そりゃ好きな人にはかっこいい、素敵、だと思われたいよね。それは性差関係なくそうだろうなと思う。

【牧のエゴ、牧の弱さ】

でも、私は牧のそれを自己中心的なエゴだと思う。
6話、あんなに春田辛そうだったじゃん。
映画で春田、すごく傷ついた顔してたじゃん。
ぜーんぶ牧を好きだからだよ。
それに気付かない牧じゃないはずなのに、抱えた風船が大きくなりすぎて割れてしまった牧には余裕がない。
誰よりも大好きなはずの春田よりも、自分のことで精一杯になっている。別にそれは悪いことではないが、「仕事」や「忙しさ」を言い訳にちゃんと向き合わない。これは、牧の弱さの所為だ。
自分がいない方が春田は幸せになれるかもしれない、という考えや、今の自分の夢を分かってくれない春田への苛立ち(これは牧が春田に愛されてる自覚があるから出てきたやつ)が、プライドや寂しさや苛立ちや焦りが、愛情と全部ごちゃませになって、破裂したんだよね。
これは、春田への愛情が逆作用した形だと思う。
可愛さ余って憎さ5億倍、みたいな。

でもさ、あんなに牧のことを好きな春田が、牧が辛くて平気なわけないんだよ。
春田は牧がいない方が辛いんだよ。牧が辛いことが辛いんだよ。
春田はそういう男だ。
というか、そういう男にしたんだろ、牧が。
そこまで牧に夢中にさせておいて、春田と自分の関係なのに、春田を締め出すなんて、そりゃないよ。

自分の自己犠牲と、春田が悲しくなるの、どっちが大事か。
どっちが、本当に牧が辛いことなのか。
それが分からなくなってしまうくらい自分を追い詰めたのは牧自身だ。
牧は理性的で節度ある(そうか?)エリートである一方で、ストレス耐性に弱い面もあると思う。なんだろう、若いからかな、まだ「弱い」のである。そしてその事実もきっと、牧は嫌なんだろう。
春田のことでダメになってしまう自分。
自分とのことで春田を苦しめてしまう自分。
恋をしてダメになる自分。
そんな自分からは目を背けたい。春田が好きなのに、傷つけている或いは傷つけてしまうかもしれない現実から目を反らしたい。
牧の自己犠牲は、自己嫌悪から逃れる術なんだと思う。

かっこよく、スマートに、余裕を持って、相手と向き合いたい。
牧はきっとそうしたい。
部長の言うように、かっこ悪いところを見せられるのが本当の愛、なんてきっと分かってる。
できることならとっくにやってる。
でもできない。
家事もやらないで、休日はずっとダラダラしてたいかもしれない。
ただただ、春田に縋って甘えて優しくしてもらいたいかもしれない。
でもしない。
だって、そんなの、かっこ悪い。
春田にだからこそ、そんなかっこ悪い自分は見せたくないんだろうな。

これを牧が若いから、と言うのは簡単だ。
確かに若いから、と言うのもあるけれど、とても真意はきっとシンプルに、「好きな人にかっこ悪いところは見せたくない」んだろうな、と思う。
恋を、する人として。
その思いが強い一方で、倫理道徳常識世間体ぜーんぶ考えて、どうしようもなくなってしまう時がある。
溜まりに溜まって自分の思考がどん詰まりになったら、どうしようもなくなって逃げてしまう。
自分から話すこと、春田の言い分を聞くこと、向き合うこと、歩み寄ること。
それら全部を放棄してしまう。(放棄できてしまう)
だって、春田だからこそ、見せたくないから。
春田が大好きだから。
そして、春田が牧を好きだと牧自身分かっているから。

だから、牧の自己犠牲(撤退)は、実はずるい。
春田の愛情の上に成立するものだからだ。
自分が苦しんだのと同じものを春田にぶつける。ぶつけさせてもらえている。
牧は、春田の愛情に甘えている。
だけど、春田は当然その牧からのボールを受け入れられる態勢じゃない。(6話も劇場版も)
当然春田は傷つく。
牧が好きだからこそ、傷つく。

自己犠牲はとかく、美しい。
ただ、それは自己中心的な行為だなとも思う。
自己犠牲してほしいだなんて、誰が言ったの?
春田はそんなこと望んでない。
牧が苦しむ方が春田は辛い。苦しいのを言って貰えない方が辛い。
それでも言わないのは、言わなくても分かってくれる、って思ってる牧は、自己犠牲で美しい人ではなく、とても自分に正直なエゴイストだと思う。
春田もエゴの塊のような愛情を牧にぶつけているので、お似合いなので別にいいんだけど。
というか、恋をする人みんなエゴイストなんだけど。

牧が逃げても、今の春田は追いかける。6話の時のように突き飛ばされたまま、何も言えなくなってしまった春田では、もうない。そんな春田を当然牧は分かっている。だから、春田に「別れようって言ったの、取り消していい?」って言われても、あまり大きな反応はしない。(それどころじゃないってのもあるが)春田から言い出したから撤回したのも春田なのは、春田の真摯な牧への姿勢を感じるしいいんだけど、ここで言いたいのは、「あんた達、本気で別れたつもりだった?」ということだ。別れようって言うけど、本気じゃない。相手を試したり、自分を試したりする時に出る言葉。究極のノロケだとも思う。勿論全部が全部このパターンというわけではないことも重々分かっている。でも春田と牧に関しては、これは、カップルの予定調和だったでしょ?と思っている。絶対、間違いなく、断言してもいいが、2人とも別れる気なんてさらさら無かったはずだ。

【あなただから、言って欲しい】

牧が片思いしていた頃の春田への接し方を見ると、とんでもなく愛情深くて、口うるさくもあるけど基本的には相手をでろでろに甘やかすタイプだと思う。(だから春田があんなことになってる)
で、そうさせてくれる牧に甘えて相手がダメになって、牧自身も辛くなる。
そういう恋を今までにもしたことがあるんじゃないだろうか。
だから、仕事でチャンスをもらえた今(劇場版)こそ、スマートに、かっこよく、自分の悩みは出さずに、適切な距離を持って相手と並んで立ちたい。
なにより春田に、「すげーな!牧!」って言ってもらいたいんだろうな。
単純にプライドが高いのと、好きな人にかっこ悪いところは見せたくないポリシーみたいなものが合わさってるように感じる。
好きな人に、大事な人に、認めてもらいたい。
好きなだけじゃなく、牧自身を肯定してもらいたい。
それって、大事な人にだからこそ、してもらいたいことだと思う。
「好き」って言われる以上に、してほしいことだと思う。
だって、春田と牧はもう、「恋愛」の次のステージに足をかけていたから。
蜜一(香港上海時代)で、「恋愛」は終えたから。

春田も結婚を目指して未来を見ていたけれど、
劇場版時の牧は、もっと現実的に「恋愛」としての二人の関係が終わったことを分かっていたと思う。
二人で、生きるにはどうするのか。
それは、自分自身を見つめ直すことだったんだ。
だから、春田の熱烈で膨大で強大な愛を(一旦は)受け流した。
春田といる未来のために。
でもさ、そこで春田に「俺、そういうモードに入ったんで」って言わないのは、身勝手だよ牧くん。
ちゃんと、言わなきゃ。ちずにも前に言われただろ。
でも、言っても否定されるって思ったのかな。そこんとこ、愛されてる自信はたっぷりあるくせに、ネガティブな部分がまだあるんだなぁとも思う。揺らぐ牧はとてもきれいだけれど。
まぁでも7話で春田来てくれなかったしね…。香港でもあんなことになってるし。そうすると巡り巡ってやっぱり春田が悪いのか??
春田はいつも牧のトラウマだなぁ。

蜜一は本当に文字通り蜜のような時間だったのかもしれない。
恋人気分でふわふわして、言葉で言っても言わなくても信頼関係が出来上がった、と錯覚させてしまうような。
この映画のようなすれ違いを見せられたら、余計に思う。
あの7話のあと、すごく二人は幸せな恋人時間を過ごしたんだろうな、って。
離れていても、浮かれに浮かれて幸せで楽しい日々だったんだね。
ここでも、「描かれていない」牧と春田の姿を感じられるなぁ!すごいなぁ!

【6話と花火大会の構造的同一性と大きな差異】

話がずれた。
信頼関係を築いていない(=蜜月しか過ごしていないだろう)二人なのに、未来を見る方向が、視点と見方がずれていた二人は、どんどんすれ違う。
見ている我々は不安で仕方がない。
そして来る、花火大会。
私は、6話と花火大会は同じ構造だと思っている。
牧が、理性と感情を制御しきれなくなって、爆発しているのだ。
ただ決定的に違うのは、2点。
牧に春田に愛されている自覚があるかないか。
春田が牧との未来を描いているかどうか。
無論、6話は牧は春田に愛されている自覚が薄く自信がなかった。
春田は牧からの告白を受けて受動的な付き合いの中で、牧に向き合っていたに過ぎなかった。
花火大会は、二人はお互いを想い合っていると自覚している上で、未来に描く自分と相手、その関係性と現実のギャップに直面している。いや、直面できている。

だから、我々は6話ほどショックではなかったと思う。多分。
ショックはショックだけど、あの6話に比べたらそんなに辛くなかった。
いやそれでもめっちゃ号泣はするんですが。
どこかで、確信があったんですよね。
きっと、この二人は大丈夫。6話みたいにはならない、って。
だって、全く本心ではない言葉を一方的に言う牧と、
それを聞いて抗うことができなかった春田は、もういない。
花火大会では、二人は結構長く言い合いをする。
言い合いができるようになったのは、牧が、春田からの特大で大量の愛情をじゃぶじゃぶ受けてきたからだと思う。
春田が、牧を好きで好きでたまらなくて、牧を好きな自分がとても幸せだと思ってるって、牧はもう知っているからだと思う。
だから花火大会は、6話の別離ほど悲しい場面じゃない。
うそ、悲しいし泣くし辛いんだけど、根源的に二人は想い合っているのが分かる。

【牧が自己犠牲しなくなる日】

牧の心のコップはいろいろヒビが入りやすくて、そこから少しずついろんなものが漏れてしまう。
溜めた愛情や幸せや夢や自信がなくなってしまう、と牧は感じるんだろうな。
もちろん、無くしたくなんか、零したくなんか、ないのに。
中身が少なくなっていくコップに牧は悲しくなる。
全部漏れちゃうくらいなら、もういっそひっくり返そう。そう思う。
でも春田は蛇口いっぱい捻ったような、大量の愛情をじゃぶじゃぶ牧のコップに注ぐ。
ヒビから漏れる量を圧倒的に上回って、コップから溢れてる。

コップにこれしかない、と言う牧。
まだこんだけあるよ、と言う春田。

牧は自己犠牲精神のある人。
それはとても美しく、寂しい。
その自己犠牲は、牧を大事に思う誰かを悲しくさせる。寂しくさせる。
だから、牧の自己犠牲精神は、ずるいと思う。
牧は、牧の大事な人よりも、自分を守るために、逃げの手を打つから。
ただ、それが他に活路を見出せないくらいの状況下で、まともな思考回路と精神状態で判断していることじゃないのも分かる。でも待って。
牧がわけわかんなくなって暴走して、牧の心を殺したら、牧を愛する誰かはきっと、自分を責める。
牧が自分を抑え込むことは、牧を大事に想うその人にも悲しいこと。寂しいことだよ。
そういう人がいるってこと、忘れないで。
牧、あなたはもう愛されている。
だから、自分を犠牲になんてしなくていいんだよ。抱えなくていいんだよ。そんなあなただから、あなたは愛されたと思うけれど、どうか、いつか、近いうちに、自分を追い込んで自分の心を押さえつけるようなことをしなくなればいいと願う。少しずつでいいから。
春田がいるから、大丈夫だとは思うけど。

牧という役を演じることは、かなり力を使う、と仰っていた林遣都氏。
牧は自己犠牲できれいな気持ちを持っている人、という解釈をした上で、
揺らぎを、儚さを、強さを、憂いを、喜びを、
その仕草や目、手の動き、息遣い、言葉運び、笑顔、涙に込めてくれたあなたに、
心からの敬意と感謝を。

あなたがいてくれてよかった。
あなたが、牧と出会ってくれて、良かった。


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