情緒とか感傷とか脈絡を捨てるとコミュニケーションはうまくいく
先日、オンラインにはオンラインの作法があると過度に思い込みすぎているのかもしれない、という話をした。
その数日後、
「普通はそう考えるでしょ」
といった言い回しを耳にして、「作法」とか「マナー」といった「普通」に縛られているのは、オンラインコミュニケーションに限らないなと思った。
特に日本人は世界的にみても非常にハイコンテクストな民族で、コンテクストってのは文脈とか前後関係を指していて、つまりひとつひとつの言葉や動作に込められた情報量が多い。ちなみに英語はだいぶローコンテクストだ。
だからこそ俳句のような情緒的な文化に味わいが生まれるのだとは思うけれど、この「行間」の読み方を知っているかどうかで意味が変わるというのは、いささか厄介だ。
そう、厄介だ。
だから、そんなのなかったことにすればいい。
込められた意味とか文脈とかを一切合切捨てて、ハイコンテクストな日本語を、ローコンテクストに貶めてやればいい。
ローコンテクストな言語として日本語を扱うと、途端に効果的なコミュニケーションが取れるようになる。
その理由は、そもそも私たちは日本語の意味とか文脈を共通認識してはいないからだ。
和歌を例に考えてみる。
千早(ちはや)ぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがは)からくれなゐに水くくるとは
競技かるたを題材にした「ちはやふる」の影響もあってとても有名になった一首だと思うけれど、その意味を知っている人はどれくらいいるだろう?
ざっくり現代語訳&要約すると、
昔々の神様の時代でも見たことがないほど、龍田川の水面が紅葉で真っ赤に染まっている
という内容だ。
ちなみに「千早ぶる」は神様の枕詞で、激しさとか荒々しさを表現している。
「ちはやふる」ではこれを、
“私の燃える想いが、激しい水の流れを真っ赤に染め上げてしまうほど、今でもあなたを愛しています” (ちはやふる公式HPより)
と解釈して、恋の歌として取り上げているけれど、それはあくまでも一解釈に過ぎない。
平安に生きた在原業平が本当にそんな想いを込めていたかどうかは、今を生きる私たちには確かめようもないのだ。
「そうだったかもしれない」と想像して楽しむのと、「そうだったに違いない」と決めつけて思考停止するのはまったく違う。
在原業平にその和歌に込めた想いを尋ねることはできないけれど。
一緒に今を生きている人には、尋ねることができる。
だからこそ、わかったふりをせずにちゃんと尋ねよう。
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