東日本大震災を振り返る

もう8年ですか、早いようで短いようなそんな気分です。

当時の僕は専門学生でした。
といっても両親が共にうつ病で、引きずられて自分もうつ病のような症状が出ていてまともに勉学に励めない自分がいた気がします。
地震発生時は学校を休んで気分転換にパソコンつけてなにかしてたと思います。

その時家に居たのは、母、叔父、自分、犬の計3人と1匹でした。

とても長い横揺れでいつもの「ちょっと揺れる」程度の地震ではないとすぐ気が付きました。
母の悲鳴が聞こえ、叔父のめったに出さない「畜生」という怒りが混じった声が聞こえ、一体何分揺られていたかよく覚えていません。
3分だったのか5分だったのかどうなのか、実際はもっと短いのでしょうけど。

本震が収まり、家も半世紀ほど経つ家だったので車の中に避難しようと叔父と相談して決めました。
津波はまずこないくらいには内陸に住んでいたから、というのもあります。
幸いにも叔父の車は2台あり、通勤用の車はバッテリーを充電したばかりだったようでラジオやカーナビのTV機能?とかで情報収集が出来ました。
このとき確か仙台空港が津波に飲まれる映像を見てしまった記憶があります。
あの映像を見るだけで背筋が凍り、寒気がしてきた記憶があります。
気仙沼の港が火の海になっている映像も見てしまいました。

父はどうやら会社の近くだかだったらしく当時姉が住んでいたマンションに行ったそうです。

その日は数分おきに余震で揺れていて満足に寝れなかった記憶があります。
犬がそのたびにワフワフ鳴くので余計に眠れなかった気がします。
正直叔父が居なかったら避難場所になっている近所の小学校の体育館で凍えていたかと思います。
本当に叔父が非番の時で運が良かった。

翌日、余震が続いている中食料確保に向かいました。
叔父が業者に頼んでリフォームしたお風呂の設備が非常時は飲水等に利用できるようなものだったので水にはしばらく困りませんでした。
ただ食料だけは非常食が無い訳ではありませんでしたが、供給がいつ再開するか分からなかったのでいろんなスーパーを自転車で漕いで回った記憶。
対して買えなかったと思います。悲しいですが考えることは皆同じでしたね。
数日は冷凍庫にたまたまあった魚等を茹でるだけ茹でて食べたり、菓子パンだけで我慢したりしていました。

しばらく風呂に入れなかったので体をウェットティッシュで拭いて誤魔化していた記憶。
脂漏性湿疹が小さい頃から治らなかったので、めちゃくちゃ痒かったなぁ・・・

家は瓦がずれて僕の使っていた部屋だけに縦割れのヒビが入っていたのと色んな場所がズレて締めにくくなったくらいで住めることには住めたので本震の数日後あたりからか家の中で生活していました。
余震のたびにビクビクはしていましたが、やはり布団の中で寝れるという安心感には勝てませんでした。

原発事故もあって外にはあまり出ていませんでしたがおそらく被爆していたでしょう。

津波で亡くなった親戚は会ったことのない遠い遠い叔母一人だったそうで、
津波の経験がある親戚が多く、皆地震が来てすぐ逃げていたとか。。

聞いた話ですが、近所のお年寄りを助けようと津波の来る地域に戻って津波で亡くなってしまった人がたくさん居たそうです。
母方の叔父の仕事仲間が助けに戻って津波に巻き込まれ、亡くなったそうです。

ざっくりと振り返るとこんなところでしょうか。
今でも震災の時の夢を見ます。
怖くて怖くてしばらく起き上がれなかったり、何もやる気が起きなかったりします。
今は働ける状態ではないのですがどちらにしろ震災の時の夢は勘弁してほしいです。

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