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失うということ 〜映画『光』を観て〜 |「ということ。」第19回

※ネタバレには配慮していますが、何も知らずに観たい!という方は読まないことを勧めます


 大事なものほど、失うのは怖い。大事なカップが割れると、人はさっと青ざめる。大事な人に嫌われると、胸のあたりがズキズキする。けれど、生きているうちは失い続けるしかないのだ。命が尽きるそのときまでに、「得た」と実感する何倍も「失った」と感じるだろう。

 昨日、先月から気になっていた『』を観た。河瀬直美監督による、弱視のカメラマンと映画の音声ガイド制作者のラブストーリー。第70回カンヌ国際映画祭で、エキュメニカル賞を受賞した。

この賞は、「人間の精神的苦痛や弱点ならびに可能性にいかに関わるかということを通じて、人間の神秘に満ちた深遠さを示現するという映画の力を証明した、芸術的優秀性のある作品を表彰する」という目的で、キリスト教徒の映画製作者、映画評論家、その他映画専門家によって1974年に創設された歴史ある賞である。(中略)6人の審査員が満場一致で受賞に導いたことからも、この映画が進む道に光が差したようだった。
【映画作家・河瀬直美の「好日便り」】映画「光」カンヌ国際映画祭エキュメニカル賞に 全国に届け感謝と「光」 - 産経WEST

 『光』。光を失う未来に怯えるカメラマン・雅哉は、古いフィルムカメラを「俺の心臓」だと言う。かつては名の知れた写真家だったが、今では視界の右端がわずかに見えるだけ。写真仲間から哀れみを向けられても、足掻くようにファインダーを覗く。

 映画の音声ガイドを作る美佐子は、認知症を患う母に会うたびドキリとする。田舎に置いてきた母からは頻繁にFAXが届くが、だらだらと流れ落ちる紙からも目を背けてしまう。生きていてほしいのに、変わっていく母を受け入れられない。

 二人が求めていたものは、光だ。そのまま、雅哉にとっては視界の明るさ、美紗子にとっては母の回復という希望。けれど、この映画の題である『光』が指すのは、つまるところ「未来」ではないだろうか。

 作中に登場する映画作品が、その象徴だと思う。(おそらく)アルツハイマーの妻と歳上の夫の最期の物語で、『光』の中では、雅哉と美紗子の関係が動くタイミングで登場した。美紗子はこの映画作品の音声ガイドを制作するが、どうしてもラストシーンのガイドが決まらない。悩んだ末、描写の解説だけに留めると、雅哉から「逃げるんだ」と批判される。そして最後に美紗子がたどり着いた答えは——

 私の印象に残ったのは、その映画作品の監督が美紗子に言った「この歳になると、生きているのか死んでいるのか分からない」という言葉。それが一体どんな感覚なのか、若輩者の私には想像できない。

 ただ、生きているか死んでいるか分からないときにも、きっと光がある。光とは、未来。悪いときだけではなく、何も感じないときですらそれはある。一秒先の未来は誰にだって平等にある。その未来が、死だとしても。

 それだけだ。未来があるから素敵、未来があるから残酷、といった感情論は抜きで。それ以上でも以下でもない事実を突きつけられた気がした。失うことが生きることだとすれば、そこには未来がある。それが、『光』から感じた祈りだった。

 カメラマン役の永瀬正敏と河瀬監督は、2015年公開の『あん』以来、二度目のタッグ。『あん』で取り上げられたのは、らい病(ハンセン病)患者の歴史で、光の下の自由が許されなかった人々の静かな叫びが描かれていた。

 河瀬監督の作品は、この二作しか観ていない。けれど、どちらもマイノリティを取り上げながら、その一寸先には「愛」や「生」といった、すべての人に等しく与えられたものが横たわっている。『光』には、「未来」があった。ただ、あるだけ。でも、確かにある。

 欲張りになる日もあるけれど、失いたくないものもあるけれど、まずは「ある」ことに気付いて、すべてを慈しみたい。そう思わされる映画だった。

 

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河瀬監督の作品は、まだまだ観たい。ストーリーはもちろん、自然を映すタイミングやカメラワーク、あとは音。音がいい。音なのに肌触りがあるというか、音のせいでたちまち映画の中に引きずり込まれるのだ。『光』を観た帰り道、私は目をつむって歩いてみた。人が行き交う宮益坂で、素面の私にそんな奇行をさせるほどのそれだった。






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編集者|不定期連載エッセイ「ということ。」|Twitterで収まらない話をnoteでします(創作の筆名「藤崎枝直」はお休み中です)
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