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カルシウムばばあにならないために

「嫌いなものある?」
そう聞かれると、わたしは即座にこう答える
「牛乳」

それを言うと、

でもチョコレートに含まれてるよ?
チーズも好きじゃなかった?
ヨーグルトは?
アイスもよく食べてるでしょ?
カルボナーラとかシチューはどうなの?
ラテも嫌いなの?かわいそー

とかってよく言われる。


チョコレートには確かにミルクが含まれていて、だからなのかわからないけど、時々気持ち悪くはなる。
「あ、げ、なんかこれ…牛乳じゃん…?」みたいな。
でももうチョコレートに関しては美味しい美味しくない以前の問題としてただの中毒なので、食べる。

チーズは大人になってからまあまあ食べるようになった。けど、好きなのと嫌いなのがハッキリわかれていて、ジュワジュワとろ〜んみたいなのはあんまり好きじゃない。どちらかというと嫌い。頭が痛くなるから。
白くてもちもちなのは楽しいから買っちゃう。
逆にどギツイ黄色のをスライスしてパンに乗せるのも楽しいから買っちゃう。
でも結局あんまり食べない。

ヨーグルトはそんなに好きじゃないけど出されれば食べる。基本的には自分でわざわざ買おうとは思わない。たまに気まぐれで買ったり、粉薬を服用するときに仕方なく、っていうのはある。だから大嫌いとかではない。

アイスも好きだけど、シャーベット以外を食べられるようになったのはハタチを超えてから。酒か。タバコか。
今もバニラ味とか食べるのはちょっと抵抗ある。溶けてゆくのを直視できない。

カルボナーラも無理だった。今はまあ、レストランで評判とか言われると頼もうかなって思う。でも好きこのんでわざわざ選んだりはしない。

シチューは今でも全然好きになれない。無理。色と湯気とかがなんか無理。

ラテとかカプチーノとかは、ミルクがまんま入ってると思うとなんかやだ。飲めなくはないと思うけど、脂肪分の入ったコーヒーって考えるだけでなんかちょっと気持ち悪い。


まあわたしの牛乳嫌いは母親の洗脳なので、矛盾がたくさんあっても仕方ない。

母親は牛乳が大嫌いだ。
わたしが通った一つめの幼稚園は、月に一回(?)給食の日があった。
基本的にみんなで同じものを食べるんだけど、牛乳はヨーグルトに変更可能だった。
当時、わたしは自分が牛乳を嫌いだという認識はなかったけど、母が
「わたし牛乳嫌いだし、エンデも嫌いなはずよね♡」
とかいう頭のおかしな決めつけ&押し付けをしてきたので、いつもヨーグルトを勝手に選択されていた。
「そうかわたしは牛乳が嫌いなのか。牛乳はまずいものなのか」
と思い込み、ヨーグルトも大して好きでなかったけど、まあきっと牛乳よりマシなのだろうと思っていた。
食が細かったので結局ヨーグルトも完食しなかったと思うけど、とにかく牛乳は美味しくないんだ、飲むものじゃないんだ、と思い込んだ。

一方、父は牛乳が大好きだ。
わたしが母の洗脳のおかげで牛乳を嫌うと、
「コップに半分でいいから飲んでみろ」
「エンデは牛乳が好きなはずだ」
と無理強いした。
ただの好き嫌い許さない頑固ジジイかと思いきや、父自身も好き嫌いが激しくて、野菜とか未だに食べないし少しでも変わった食べ物をみると顔をしかめる。
野菜などを食べたがらないわたしを、
「食べたくないものは体が欲してないんだから無理して食べなくてもいい」
と、まるで父自身に言い聞かせるかのように許した。
食べ残しにもあまりうるさくなかった。
食べられないものは仕方ない、と。
作る側が馬鹿みたいに学ばず毎度毎度たくさん出すのが悪い、と言わんばかりに。

そう甘やかされたのね、なんて思うかもしれないけれど、母は牛乳以外の好き嫌いを許さなかった。
当時わたしは焼き魚が大嫌いで、でも母は
「あなたはわたしと同じで牛乳を飲まないんだから、お魚でカルシウムをとらないといけない」
と毎日のように無理に食べさせた。幼いわたしに。
お茶碗によそわれた白米。その上に鎮座する魚。
なん十分もにらめっこをした。

「美味しいから食べてみな」
「体にいいから食べなさい」
耳にタコができるくらい聞いて、その手の「食べ物を勧める言葉」を聞くと虫唾が走るようになった。

チーズもよく与えられた。
「白いチーズは牛乳みたいだし、わたしもエンデも食べられないわ。スモークチーズならわたしも食べられるし、エンデも平気なはず♡カルシウムのために、食べましょう♡」
とまた頭のおかしな理論で、アルミに包まれた四角いチーズをよく手渡された。
毛布にくるまりながら食べた。カルシウムばばあ。

シチューもラテも、バニラアイスも、母が毛嫌いしていた。
「白くて、牛乳くさくて、気持ち悪い」と。
友達のおうちで食べたシチューは美味しかったけど、気がついたらわたしもそう思うようになった。


文字にすると、親のヤバさが際立つような、そうでもないような。
こんなことどこにでもあるでしょ、ありふれた家庭の日常だ、って思うような。
もしかしたら母がいなくてもわたしは牛乳を嫌いになっていたかもしれないけれど。

まあよくわからないけど、人間は他の人間、特に自分の子には自分と「同じ道を歩んでほしい」と思うんだろうな、なんて。
同じ方向をむいていてほしいとか、そういうの。

まあ安心するよね、自分の人生を肯定されているようで。
でもさあ、巻き込まないでよね。って思うわけですよ。
今日一番言いたかったのはこれですね。
巻き込まないでよ。このために長々と書いたし、まだ長々書きます。


他には「同じ痛みを経験してほしい」っていうのもあると思う。

自分と同じ目に遭ってほしい、っていうのがどこかできっと働いていて、それは往々にして本人も気がついていないんだけど、でも無意識にしろそんなことを望むのはやっぱりおかしい。
同じ痛みを経験したところで、理解者になれるわけでも許せるわけでもない。ていうかそんなのできたところで意味なんてない。
できるだけ多くの人が幸せでハッピーでキュアキュア〜うふふん♡な方がいいに決まってる。
これは前のnoteで書きたくて、でもうまく書けなかったこと。この時も同じようなことを思ってた。
どうして他人にも不幸でいてほしいと思っちゃうんだろう。みたいな。

あとはその裏の面みたいな「同じ理想」ってやつ。

「苦労させたくない」とか
「やりたいことをやらせてあげたい」とか、
一見めちゃくちゃいい人みたいだけど、結局は、というか度が過ぎると押し付けになる。
何かを必死にやらなくちゃいけないとか、同じ価値観でいることを期待されているような。
要するにありのままの存在を認められてないってこと、かも?
何もできなくても、何も頑張らなくても、何も考えなくても、何かを目指さなくても、その存在を褒められ、認められるなんて、幼児期くらい。
なのに、その幼児期に期待をされすぎると、その善意の思いやりはいとも簡単に「抑圧」に変わる。

結局は「同じであってほしい」っていう同調圧力みたいなのがしんどいってこと、
それが家庭内で起こるともっとしんどいってこと、
そこに大人同士の摩擦や軋轢があるともっともっとしんどいってこと、
そんな中でも生きてきたエンデちゃんはとってもすごーいってこと!
「同じ」をいくつ集めたところで我々は別の人間!ってこと、
でも「同じ」人がいると安心しちゃうのはなんでだ?ってこと、
牛乳が体にいいとか骨が強くなるとか嘘(という説もある)!!ってこと、

が書きたかったんです。
エンデ読者の皆さんはかしこびと(賢人)ばかりでしょうから言うまでもないと思いますが、
これからもあなたの人生にわたしを巻き込まないでほしいし、けどわたしの人生には巻き込まれてほしいな〜〜〜!です!おしまい!


また夜中にスイッチが入ってわかりにくくて意味のないことをつらつらと書いてしまった。でも自分のための覚え書きなのでオールオッケー!
おやすみなさい

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