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私大病院9〜その後4年間に渡る通院〜

今回も自分のことなので無料で公開です。

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雪の降る2月末、私はあの病棟を抜け出した

飛び降りようとした日と同じ靴を履いて、パジャマじゃない服を着て、髪は編み込みにした。
二ヶ月前、成人式の直前、起き抜けに気持ちがどうしようもなく扱いきれなくなって、工作バサミでバッサリと切り落とした、ボブヘア。
ピアスもつけた

両親が退院の手続きをするのをベンチで眺めた。
外は雪、コンクリートも見えないほどに、雪だった
どれだけのお金がかかったのだろう、あの空虚な日々に
考えるともなく考えて、そんな時だけガラス玉に触れるかのように私に話しかける母、父
喉乾いてない?寒くないか?なに食べたい?
うるさいうるさいうるさい!私はそんなものが欲しいんじゃない
空腹で、喉がカラカラで、凍え死んでもいいのだ。むしろそうなりたいのだ。

そう泣きそうになりながら、友達に連絡した
共依存していた女の子には、死んだと思われていた
8、9歳からの友達にも、生きていることを驚かれた
みんなに謝られて、どうしようもなく死ねばよかったと思った

死のうとすれば、私は許されるのか
こんなにも何もできなくて、空っぽで、有害な私でも
苦しいって叫んで消えてしまおうとしたら、守ってもらえるのか

きっとあのとき私はそう学んだ、自覚はなくとも。

退院したその足で銀座に向かった
丸ノ内線に揺られ、現実世界が現実として回っていることを知った

貴金属のブランド店に連れて行かれ、遅くなったけど誕生日プレゼントにと指輪とネックレスを買い与えられた
3週間の入院費用よりも高いのではと思った
こんなものはいらない、と断る気力もなく、指輪のサイズを測られるがままにしていた
どうせならピアスにすればよかったと後からぼんやり巡らせた
そのときのネックレスは、今も私の鎖骨を照らしている。
指輪はなくしてしまった

座敷のお店で牛タンか何かを食べ、疲れて眠った
赤子のように扱われて、やっぱり死ぬべきだったと思った

それからは毎日のように親にどこかに連れ出され、目を盗んでは死のうとした
死ねないとわかっていても逃げ出さずにはいられなかった
渋谷の東急の屋上、三鷹台の線路、新宿の京王の屋上
柵を超えたり、ギリギリのところで眺めたり、ベンチに腰掛けるだけだったり

大学に入学しても死にたい気持ちは収まらず、むしろ

こういうこともありつつ、ただただ死ぬことだけを考える日々は深まっていった

週1で通院を義務づけられていて、律儀に通っていた
薬を飲んでも逃げにしかならないとわかっていて、薬にすがるしかなかった
親についてこられた日には、診察室の中で黙るしかできなくて、病院を出ても薬局を出ても、カフェでケーキを食べさせられても、私には尊厳というものが一切ないと感じた

そもそも尊厳なんていう概念が理解できていたかも怪しい
私はいつまで「こう」なのだろうとは思っていたけれど、何が「こう」なのか全く説明できなかった
今でもよくわからないけれど、自己決定が許されない、許されないと思い込んでいたのかもしれない
その反動で今はどうしようもなく奔放に過ごしている

自分を大事にしろと、友達にも知り合いにも医者にも、何度も言われた
でも、よくわからなかった
大事にするって、なに?

そう思いながら、薬を飲み、たまにODし、お風呂場で吐いたり、夜中に西友で安いお弁当とお団子とアイスを買い込みトイレで全部詰め込んで一気に吐いたりした。
腕や胸から血を流して浄化させた

退院して一年ほどで、通院は月1でいいかなってなったり、また救急車のお世話になって1週間ごとに来いって言われたり。

薬はエビリファイやラミクタール、デパケンR、リボトリール、などを試した
トピナを飲みだして過食嘔吐が落ち着いたのは22歳のころ
最高の薬だと思った
これなしでは生きられないと思った

頓服でデパス、ソラナックス、ワイパックスなどの大御所も使った
リスパダールには21歳から、長くお世話になった。今もお守りとして持ち歩いている。
これもなくては生きていけないと思っていた

大学の健康診断では毎年保健室のようなところに連れて行かれ、授業中に辛くなるとしょっちゅうベッドを借りて寝ていた
週3ペースで通っていたのですっかり顔なじみになってしまった

23歳の夏にODしてリスカして、気持ち悪いなんて覚えてないくらいになった
3日後、親の勤める会社の制度?で利用できるカウンセリングに行けと言われた
一人で中央区に行き、人の良さそうなおじさんにカウンセリングされた
そのおじさんが席を立った瞬間、カバンからカッターを取り出してまた切っていた

気がついたら切っていて、気がついたら泣いていて、気がついたらおじさんが戻っていて、気がついたら病院に電話された
タクシーで病院に行くよと言われ、気がついたら乗っていた
いちおう親に連絡してねと言われ、どうしても嫌だったけどどうしても仕方なくて、母親に電話をすると
「またお金かかるの!病院なんて行かなくていい」
と言われた

ネックレスも指輪もいらなかったのに
お金払ってまで生きる価値のない人間なのに
もう私になにも与えないで

大学で薬を飲んで救急車を呼ばれ嘔吐し、痙攣しながら運ばれたこともあった

そんな、どうしようもない日々だったけど、4年間でどうにか卒業し、バイトもして、恋愛もして、どうしようもないなりに生きていた。

普通になりたくて、なれなくて、就活しても声は出なくなるし電車はさらに乗れなくなるしひどい頻尿になるし、やっぱりどうしようもなくて、普通に憧れ続け、泣いていた

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