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あの夏、あの風、あのビール


あの夏、わたしは恋をしていた


「お盆はさ、どこか涼しいところに行こうか」

そんなことを言われたもんだから、就活もバイトもすべて投げ出した。
恋人と泊まりがけでどこかに出かけるなんて初めてで、どきどき。

親には、大学の友だちとって嘘をついた。

家の近くまで迎えにきてくれるって。
見つからないようにそそくさと、静かに玄関を出る。

早朝の住宅街は静かだ。
その中に、見慣れた車をみつける。

「おはよ」
「おはよ、お迎えありがとう」
「うん、じゃあ行こっか」

高速にのって、どきどきしていたはずなのに気がついたら眠っていたらしい。
「わあ、ここどこ?もうなんにもないね」
「ないねえ。まだ半分くらいだから、寝てていいよ」
ああ、寝てたのばれてる。当たり前か

「ううん、ありがと。もう大丈夫」
返事のかわりに微笑んで、片手ハンドルで音楽のボリュームを上げる。
寝てる間は音量さげてくれてたんだ。ごめんね、優しいなあ。

窓から流れる景色をインスタのストーリーに、匂わせ投稿。
私たちが一緒にいることは誰も知らない。
それでいい。

そうこうするうちに目的地につく。
ホテルの人が荷物を運んでくれて、相手の苗字で呼ばれて。
あ、わたし旅行してるんだ。なんだかくすぐったい。

お部屋でゆっくりして、夜は地のものを食べようかと、お店を探す。
翌日は「滝をみにいかない?」と車を走らせてもらう。
知らない人に声をかけて撮ってもらったツーショット。

帰りに温泉に入って、テラスでビールを飲む。髪がなびく。
なんだか楽しくなっちゃったねって笑いあって、指をからめる。
近くで子どもたちが走り回ってて、私たちも追いかけっこする?なんてふざけたり。

三日間のみじかいみじかい旅行のおわり、帰り路。
魔法が解けたらふたりはまた、ただの大学生とただの社会人。
やだな、ずっとこうしてたいな、これが日常になればいいのに。
車の中でそんなことを思って、ちょっとだけ言って、そしたらもうお家に着くってところなのに
「コーヒー飲みにいこっか」

楽しかったね、うん楽しかったね。
美味しかったよね、うん美味しかった。
また行きたいね、うん行きたい。
そんなふうになんども振り返って、記憶をなくさないようにと反芻させた。

しっかりこびりつけたから、一生剥がれ落ちないんじゃないかって思ってたけど、私はもうあの日に飲んだビールの名前も、聴いた音楽も、着ていた服も、なにも思い出せない。

匂いも仕草も、すっかり忘れてしまって、あの夏のわたしは幻だったのかなってくらいに遠くまで来てしまった。




「乾杯、お疲れさま」

結婚するよ、って言ったらあの頃のわたしはどんな顔するかな。

わたし、結婚するんだ。いま隣にいる人と。
とびきり素敵で、かっこよくて、いい匂いがして、あの人にちょっとだけ似た、大好きなこの人と。

「乾杯」
〝あの夏に〟とこっそり付け加え、グラスを傾ける。


今日ふたりで飲んだビールの名前は、忘れないようにしよう。





#フィクション #あの夏に乾杯

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