選別の中のロマン革命――中島梓・栗本薫論

(初出:「小説トリッパー」2001年秋季号)


 1.サブカルチャー化と抽選感覚

   純文学雑誌の新人賞への投稿数は、その雑誌の販売部数に比して妙に多いといわれる。日頃は純文学など読まない人々が、「公募ガイド」などをみて応募してくるらしい。

  賞とは、トーナメントである。普通に考えれば、その競争を勝ち抜くには社会の流れを読むとか文章技術とか、トレーニングや努力が必要だろう。ところが、社会や文学の価値体系を把握し、それを乗り越えようとする努力をせずに、無邪気に書いて送ってしまう――そんな投稿者たちには、競争と抽選を混同したような感覚がある。

  参加者が競技を繰り広げ、既存ルールの側に立つ審査員がそれを判定し、勝者を選別する。既存ルールの中で有効に戦ったもの、あるいは既存ルールからはみ出て新しい戦いの可能性を示したものが、勝者になる。これが小説における健全な競争だろう。小説にしても、たとえ明示されてはいなくても、暗黙のルールはあるのだから。そこでは、あらかじめ小説に関して存在する価値体系が、トーナメントの進行を司っている(これは、ごく単純化した理想論ではあるが)。

  一方、既存ルールを知ることが必要だとも思わない投稿者は、自分の原稿が抽選で受賞することもありうると、信じているかのようだ。プレゼントの抽選に応募する一通のハガキのように、自分の原稿も他人の原稿も全く平等に扱われて当然だと思い込んでいる。彼らは、民主主義の子なのである。 

 では、文学新人賞を抽選の場と見なす感覚は、いつ頃から始まったのか。私は文芸誌への投稿数の推移を調べたわけではないが、村上龍の出現に契機をみるのは妥当だろう。

   村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』は、乱交パーティーとドラッグ漬けの日々を描き、群像新人賞、そして芥川賞(第七六回・七六年上期)を受賞した。推薦者の埴谷雄高が「ロックとファックの時代」と評し、江藤淳が「サブカルチャーに過ぎない」と否定したこの小説は、文学のサブカルチャー化の先駆けであり、百万部を超すベストセラーになった。あの頃、中学生だった私も即座に購入し、「刺激的なエロ小説だ」と興奮したものだ。

   当時二十四歳の村上龍の大ヒットをきっかけに、出版界では<若手作家>が、ある種の現象となった。この時期の芥川賞をみると、村上龍の前回の七五年下期には戦後生まれで初めて中上健次が「岬」で受賞しており、七七年上期は三田誠広が『僕って何』で受賞している。また七○年代後半には、二十代・十代の作家デビューが相次いだ。純文学系では、中沢けい、松浦理英子、見延典子、村上春樹、田中康夫、山川健一など、エンタテインメント系には、赤川次郎、新井素子、橋本治、笠井潔、大原まり子などがいる。出版社側も意図的に若手作家をプッシュした時期である。彼らのうちの多くは、ロックやマンガといったサブカルチャーや同時代の風俗を作中に取り込み、それが新鮮さと受け取られた。

  一連の若手作家は、個々人の真実はともかく、世間的にはトレーニングなしに簡単に新人賞に当選したようにみられた。「この程度なら自分にも書ける」と思った若者の多さは、マスコミで頻繁に語られた。私自身も中高生の頃は、そう思っていた。若者消費者は、若手作家と自分とが、<運>を同程度に持っているはずだと考えた。そして実際に書いてしまったものたちが、抽選感覚で新人賞に応募するようになった。

  同様の抽選感覚を誘う図式は、八○年代のポップ文学(特に吉本ばなな)、九○年代以降のJ文学(鈴木清剛、最近では中原昌也など)の新人浮上時にも引き継がれていった。文学のサブカルチャー化と抽選感覚がペアなのは、考察欲を誘う事柄であり、拙文はその興味を一つの核にして書かれている。

   さて、中島梓=栗本薫も、若手作家が多数登場した七○年代後半にデビューしている。その中で彼女が他の若手と異なっていたのは、いきなり評論と小説、二つの賞の受賞者として世間に現れたことだ。

  彼女は七六年に、栗本薫名義で「都筑道夫の生活と推理」を探偵小説雑誌「幻影城」に応募し、新人賞評論部門佳作に選ばれた(七七年発表)。だがマイナー専門誌での入選は、ささやかな前奏にすぎなかった。七七年に中島梓名義の「文学の輪郭」で純文学雑誌「群像」の評論賞を受賞、七八年に栗本薫名義の本格ミステリ『ぼくらの時代』で江戸川乱歩賞を受賞。彼女が二十五歳だった七八年には、「文学の輪郭」を収めた初評論集『文学の輪郭』と小説家デビュー作『ぼくらの時代』の両方が出版された。学生時代の雰囲気を残した若い女性が、エンタテインメント小説だけでなく、それとは正反対に思える難しげな評論まで書いたことが世間を驚かせた。

  二冊の版元はいずれも講談社であり、彼女の登場のしかたは、本人にとっても版元にとっても戦略的だったと捉えられる。小説新人賞のトーナメントに当選した若手というだけなら、世間は「自分にも書ける」と思ったであろう。なにしろ<運>は平等なのだから。だが、難しげな評論新人賞のトーナメントにまで勝ったとなれば、「自分にも書ける」「運がよかった」とはいいにくい。こうして彼女には商品として<才女>のレッテルが貼られ、他の若手との差別化が図られた。

  彼女はまた、マルチな人でもあった。ミステリ、SF、マンガも評し、小説の方もSF、時代、ハードボイルド、性愛、私小説とジャンルを選ばずに書く。クイズ番組やラジオにレギュラー出演し、ミュージカルを演出。バンドでキーボードを弾く一方、長唄もたしなむ。版画家の池田満寿夫が「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞をとり話題になったのは七七年上期であり、マルチな才能を持てはやす風潮もあった。中島=栗本は、様々なジャンルのクロスオーバー化を身をもって示していたのだ。こうした相対化は、八○年代以降に加速していく。その意味で彼女は、予兆的な存在だった。

   しかし、現在の彼女のイメージは、第一に、未だに続いている大長編ヒロイック・ファンタジー<グイン・サーガ・シリーズ>の作者というものだ。そして、<魔界水滸伝シリーズ>や<名探偵伊集院大介シリーズ>など、他にも娯楽物語の長大なシリーズがあり、やおい小説(女性向け少年同性愛小説)の重鎮という立場もある。小説家としては、自分の物語世界にひたすら没頭しているようにみえる一方、評論活動は八○年代以降は散発的なものにとどまっている。

  現在のミステリ評論界では、『ぼくらの時代』は、謎解きに力点を置く本格ミステリが低調だった時代に、それを復興しようとした試みとして評価されている。だが、ミステリ作家としての今の栗本薫は、<名探偵対怪人>型の乱歩風通俗活劇に傾斜している(八六年開始の<天狼星>シリーズなど)。八○年代後半からは<新本格>の呼び名で本格ミステリの新たな流れが起こったが、栗本はこのジャンルの本道で大勝負に出ることはなかった。

  一方、純文学とサブカルチャー全般を区別せずに語る中島梓型の評論スタイルは、八○年代に一般化したが、その後『文学の輪郭』を本格的に再評価する動きはなかった。かつて時代の寵児だった中島=栗本は、時たま<現代>をテーマにした評論を上梓し注目されもしたが(『コミュニケーション不全症候群』九一年など)、ここ十数年くらいは、基本的にシーンから乖離した存在である。

  だが現在、文学のサブカルチャー化と抽選感覚の蔓延を考えようとした時に、初期の彼女の特異さは、私には非常に興味深く思われる。また、サブカルチャー化や抽選感覚の<軽さ>は、小説の登場人物のキャラクター化という今日的現象にもつながる問題だ。この点でも栗本薫は、『ぼくらの気持』(七九年)で比較的早い時期に、コミックマーケットで流通するパロディ・マンガ同人誌の奇矯さを取り上げ、物語の登場人物が平板化される状況に関心を示していた。

  中島梓が文芸評論家として登場したのと同時期に、柄谷行人は文芸時評を行っていた(『反文学論』七七~七八年執筆、刊行は七九年)。彼は当時の国内小説に対する印象を、『日本近代文学の起源』(八○年)の文庫版あとがきで、[一九七○年代の半ばに、大きな転換期があったことは明らかである]と記していた。

  しかし、日本に帰って、文芸時評(『反文学論』所収)をはじめた時、そこに近代文学が決定的に変容する光景を見いだした。一つの特徴をいえば、それは、「内面性」を否定することだったといえる。文学といえば、暗くどろどろとした内面といった一方的なイメージが、この時期に払拭された。別の側からいえば、それは意味や内面性を背負わない「言葉」が解放されたということである。(中略)言葉遊び、パロディ、引用、さらに物語、つまり、近代文学が締め出した全領域が回復しはじめたのである。(「著者から読者へ ポール・ド・マンのために」八八年)

 『反文学論』の本文中で、柄谷が言及した中島梓の評論のタイトルが「表現の変容」(『文学の輪郭』所収)だった事実が、私には面白い。柄谷はこの評論について、[つかこうへいの戯曲やギャグ漫画「ガキでか」などを考察して、中島氏は現実に対して表現の自立をめざすというような「現実と虚構」の対置図式そのものをこえる、「表現にかかわる意識それ自体の変容」を指摘している。若い世代の中島氏が今日の風俗現象に積極的な意味づけを与えようとしている点において、一読に値する]と評価していた(ただし、[文学批評としては、ここ数年の情勢論ではなく、もっと根底的であるべき]、[「表現」という概念そのものを疑うところからはじめるべき]と苦言も呈していたが)。

  中島や柄谷の指摘した<変容>とは、結論を急げばサブカルチャー化である。その<変容>の先に延びていった線の一つが、今日のキャラクター小説につながっている。 それでは、中島=栗本が、サブカルチャー化、キャラクター小説とどのようにかかわるのか。そして、抽選感覚のような選ばれる側の心性といかにクロスするのか。遠回りになるだろうが、初期の作品にさかのぼって考察を進めたい。

 2.叙述トリックと「ぼく」

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