だから私はノンフィクションが大嫌いです。

「天災」みたいに衝撃的でセンシティブなものを私は絶対言葉にしません。
これはある意味、世間への宣戦布告なのかもしれません。

他人がどうでもいいと思うような超絶個人的なこと(祖父母の他界とか、前歯が欠けたこととか)は遠慮なく語っていくと思います。

だって、「天災」ってもうそれだけで凄まじいエネルギーがあるんですよ。
だって、「天災」ってもうそれだけで言葉の枠に納まってしまうんですよ。

そのテーマを描く時点で「私の言葉」は消えてしまうわけなんですよ。

言葉に対する覚悟が足りないだけかもしれません。
言葉に対する責任が著しく欠けているだけかもしれません。

それでも私は語りません。

私が語りたいのは、「天災」という言葉によって集約されてしまうものではないからです。

もちろん、集約されないかもしれません。
私が「私の言葉」を信じていないだけかもしれません。

だけど、「言葉」はあくまでも読者をもってして完結する生き物なので、ナマモノなので。

そんな不確実性の高い有機生物に「天災」を任せることは出来ない、と思うのです。
情報として伝達する必要性はあるとしても、それは私のやりたいことではありません。

やりたいことでない限り、それを題材に何かを語ることは不誠実になります。
「私の言葉」が偽物になり、それこそ信じていないことにもなります。

もしも覚悟と責任が本当にないのであるならば、私は「天災」をテーマに筆を取ったと思うのです。

「天災」をもってして私が何かを感じたのなら、私はそれを「天災」ではないテーマで描くと思います。

私にしかない視点で、言葉で、描くと思います。
だってそれが本当で、だってそれが誠実で、だってそれが「私の語るべき言葉」だと思うから。

情報伝達と語ることは別物ですよ。
承認欲求という巨大で甘美な毒に取り込まれてしまいませんように。

どれだけ純粋な想いをもって書かれていても、私がそれらを読んだとき「擬似」感覚で泣きます、苦しみます、楽しみます、喜びます、笑います、怒ります。

読む方が嘘の気持ちになる本当の話は、果たしてホンモノなのでしょうか。
それが書いた方の欲した答えなのでしょうか。

何より私は他者の真実の「擬似」体験で喜怒哀楽を感じたくありません。
気持ち悪くて、申し訳なくて、反吐が出ます。

「感情移入」なんて残酷な言葉はフィクションだから許されているのだと思いませんか?
フィクションだけで満足は出来ませんか?

だって私たちは「その人」になれないのに。

名前のある「その人」が、ただの「登場人物」としてだけ存在してしまうなんて、そんな酷いことを私たちはよく平気で出来ますよね。

人は一人残らず人でなしなんですよ、結局。

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