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第五話 地獄のトレーニング計画、未遂

野口健さんともそのシェアハウスで数日後に会ったが、彼は開口一番こう言った。
「今週末は、富士山に行くぞ」
長尾さんとのヒマラヤ6000m峰に向けた調整にとのことだった。
ただの富士登山ではなかった。
「0合目から富士山山頂まで往復。それを3日間で3回やる!」
私は富士山に一度しか登ったことがなかったから、そのプランに驚愕した。登ったのは夏山で、もちろん五合目からだ。
野口さんと行くのは4月の雪山。
しかも0合目から3往復もするのだ。
累積標高差は9000m近くになるだろう。

雪山用の靴は持っていなかったが、野口さんの使っていたものをもらえることになった。
それは「プラスチックブーツ」と呼ばれる厳冬期用の登山靴だった。
「南極最高峰のビンソンマシフに登た時の靴だぞ」
と野口さんは言った。
当時、野口さんは「七大陸最高峰最年少記録」を目指していた。
すでに六大陸の最高峰に登頂しており、そこまでの最難関が南極の最高峰だったようだ。
凍てつく氷の大地、南極大陸—―。
その最高所まで行った靴。
「雪の富士山を0合目から3日連続登頂」とは正気の沙汰とは思えなかった。
だが、その靴を履くと「それも臨むところだ」という気持ちに変わってきた。
人生のサイコロが降られた気がした。

週末までの数日間、私は近くの小金井公園を走った。
にわか仕込みでは意味がないことはわかっていたが、走らずにはいられなかった。
葉桜がトンネルのようにどこまでも続いていた。
富士山を0合目から3日連続登頂—―。
息を切らしてそのことを考えたが、自分の心身がそれに耐えられるのか、想像がつかなかった。

登山当日、駅で待っていると、野口さんと長尾さんが現れた。いよいよである。
開口一番野口さんは言った。
「やっぱり富士山はやめて、八ヶ岳縦走にしたから。赤岳から編笠岳まで」
「えっ! マジですか……???。」
八ヶ岳は3000mに満たない初級者の山。
いきなり、全然大したことのない計画になったのだ。
この数日間のランニングと高揚感はなんだったのか??
しかし、野口さんと長尾さんは「これが普通」とばかりに中央線に乗りこんでいく。
この無計画での行動パターンは、野口さんの「当たり前」だったのだが、当時の私としては信じがたく、中央線から遠ざかる富士山を茫然として見続けていた。
人生のサイコロは振られたのではなく、坂道を転がり落ち始めたのではないかと思った。

その日は本格的な登りがはじまる手前の赤岳鉱泉まで。しかし、パイロットの試験に向けて徹夜で前夜勉強していたという長尾さんは、相当にバテテいた。
鉱泉から見上げる八ヶ岳の山肌には、まだびっしりと雪が残っていた。

翌日は大雨。
バラバラと雨の音が響くテントの中で、野口さんの七大陸最高峰の話を聞く。
彼は植村直己さんの『青春を山に賭けて』を読んで、その挑戦をはじめたのだという。
私もその本を高校の時に読んでいた。
それは「登山記」というより、五大陸の「放浪記」だった。
山の記述よりも、行く先々での人との出会いのことの方が多く書かれていた。
野口さんはその本に影響を受けたからだろうか。彼の話も大陸最高峰を目指すなかで出会った人々の話のことが多かった。
「マッキンリーに登ったあとは、ベーリング海峡が見える村まで行ってみたんだよ。冬になったらそこを歩いて渡ってみたいと思ってた。だけど村人は、ベーリング海峡はもう凍らないっていうんだよ。荒涼とした海岸の漁村でさ。あの人たちは、今どうしているだろうな」
とりとめもなく話は続いた。
「冷戦時代、ヨーロッパ大陸の最高峰はモンブランだと言われてたんだよ。だから1989年に登った。だけど冷戦が終わったことで、ヨーロッパの範囲が変わって、最高峰が旧ソ連にあったエルブルス山になっちゃたんだよ。」
最高峰が変わったことよりも、野口さんがそんな以前から山を登っていたことに私は驚いた。
冷戦時代といったら私が小学校の時だ。
だが考えてみると野口さんは大学生と言っても、私より6歳も年上で、その時すでに25歳。大学7年生だった。
「そのエルブルースは、全然情報がなかったんだけれど、ヒマラヤで知り合いになっていたロシア人に連絡をとると、彼が連れて行ってくれることになったんだ。僕はひどい高山病になったけれど、彼が付き添って降りてくれて……。ロシア人って冷たいイメージあるじゃない。でもあいつはアツいやつだったよな」
野口さんは、山そのものよりも、登山を通じて出会った人との出会いを楽しんでいるようだった。
植村さんと同じように大陸最高峰へのトライは「登山」というより、やはり「旅」に近かったのだろう。

大雨はテントの中まで浸水してきた。
私たちは、テントの周りに溝を掘り、水路にして水をはけさせた。
しかし午後はそのテントに嫌気がさし、山小屋に逃げ込み、お茶を頂いた。

山小屋では年配でベテラン風の登山客が、同行者に自慢げに話していた。
「オレは天気図を書いてたから、大雨になることはわかってたんだ。お前ら天気図書けるか?」
その同行者の中には「書ける」という人もいた。
私は一応、高校の時に自分で天気図を練習していた。
だが、野口さんは長尾さんにこう聞いていた。
「オレ天気図書けないんだけど、長尾書いたことある?」
「ないですね」
「あれって必要なのか?」
「どうでしょうねえ」
スマホがない時代である。必要に決まっていた。
だが、そこは突っ込みを入れずに、私は後輩らしく、話題を変えた。
「ヒマラヤでは、気象情報はどうやって手にいれるんですか?」
「チベット仏教のカレンダーを見るんだ。けっこう当たるんだよ。あれは。」
チベットのカレンダーには、あらかじめ天気予報が記されているらしい。
このハイテク情報化国家・日本の登山家が、それを信じていたとは……。
私はまたもや愕然とした。
だがこの3年後、自分がヒマラヤ8000mでそのカレンダーの情報を使うことになろうとは、その時は思いもしなかった。

大雨は夜半に止んだ。春の嵐だった。
朝、テントを出て山を見てみると、雪は一気に解け、八ヶ岳は黒々とした岩山に変わっていた。
抜けるように青い空の下、出発。
岩の上をカタンカタンと無駄に音をたてて、プラスチックブーツで歩く。
なぜか野口さんだけは、やわらかいトレッキングブーツも持ってきており、快適そうに先を歩いていく。
赤岳山頂に着くと、野口さんは軽い感じで、
「エベレストに敗退して、もう二度と山頂に立てないかと思ってたけど、何とか登頂したぞ」
と言った。

その日は主稜線を南下して、権現小屋まで。
富士山3往復よりずっと楽だと予想していたが、プラスチックブーツで歩く岩の稜線は、かなり疲労するものだった。
野口さんだけが、快適なトレッキングブーツを履いていることが、その疲労に拍車をかける。
テントサイトに着くと、野口さんがまた話をはじめた。
とにかくしゃべり続ける人だった。
「女性に会ってないせいか、山から下りると、みんな綺麗に見えるんだよ。海外の長期の山ではそれが健著で。一目ぼれしてしまったこともあって……。」
そんなふうにその日も、山の話ではなく、野口さんが出会った人のことばかりを聞いていた。

最終日はさらに南下し、清里駅を目指した。
岩の上を歩き続けてきたが、最後の山麓の道はアスファルトに変わった。
ゴトゴトゴトゴト歩き続け、プラスチックブーツが割れてしまうのではないかと思った。
足裏の突き上げ感に嫌気がさしながら、その道を歩いていると、唐突に野口さんが、
「大石お前も七大陸やるか?」
と言った。
軽く言った言葉だと思う。
しかし、私はそこで「ひらめき」と言えば大げさだが、これから先に続く「道」が見えた気がした。
私はこれからひとつずつ七大陸最高を登っていき、野口さんの「六大陸」に追いつく。
そして、いずれエベレストにも登り、最年少記録を塗り替える。
何しろ、私はまだ18歳なのだ。
私の「七大陸最高峰への挑戦」はこの瞬間に始まったのである。

なんてことは全くなかった。

私は「七大陸最高峰最年少」というタイトルは、野口さんにはじまり野口さんに終わるものだと思っていた。
それを追っても「二番煎じ」になるだけだと感じていた。
(という私の予測に反して、この数年後に山田さん、石川さん、栗木さんなど、「七大陸」を目指す同世代が次々と出てきたのだが……)
だが、「二番煎じになるので、私はやりません」とはストレートには言えず、
「お金がかかるじゃないですか」
と言って返事を濁した。
すると野口さんは
「金なんて、どうにでもなるんだって。」
とはっきりとした口調で言って、僕の肩をたたいてきた。
金を得るために社会人はみんな働いているんじゃないか? 高校生だって、給料の良い企業や団体に入るために受験勉強をしている人がほとんどじゃないだろうか? 
私はそう思っていたから、野口さんの言葉は異様な響きを持っていた。
そもそも、野口さん自身も、その金を得たくて毎晩遅くまでスポンサー活動をしているのではなかったのか?
行動と言葉が矛盾していた。
だが、なぜか、野口さんのその言葉には、清々しい響きもあった。

少し間をおいて野口さんはこう言った。

「行きたいって気持ちさえあれば、どこへでも行けるんだ」

野口さんの向こうには、新緑をつけ始めた梢の枝が風に揺れ、その向こうには超えてきた八ヶ岳の稜線が青空にスロープを描いていた―—。

43歳になった今、私は小さな会社を経営し、社内では毎月売上目標をかかげている。毎週出ている異業種交流会でも、その交流会が生み出した金額についてのアナウンスが毎回流れる。
その「金額」に向かって毎日の行動も思考も支配されているにも関わらず、この時の野口さんのワンシーンは、なぜか折に触れて思いだされる。
きっとこの場面は、体の奥底に浸透して残り、自分の核の一部になってしまっているのだろう。
 
山の厳しさというよりも、無駄に固いプラスティックブーツに疲れはて、帰りの中央線の中ではずっと眠っていた。
小金井駅で電車を降りて、シェアハウスに帰る道すがら、大学の同じクラスの女の子に会った。
野口さんのいう通り、山から下りてくると女性は非常に輝いて見えた。
登山後の清々しい顔をした私に、向こうも惹かれるものがあったのだろう。恋が芽生える予感を私たちは、感じていた。

なんてことも、全くなかった。
ただ挨拶をしただけで彼女は通り過ぎていった。むしろ、何?この汚い人たちは、という冷ややかな視線をむけて。

野口さんと、長尾さんと私は、シェアハウスに戻る前に、「油そば」の「丸善」に入った。
野口さんと長尾さんは常連らくしく、入店するなり
「あんたたち今回はどこに行ってきたの?」
とお店のおばちゃんに声をかけられた。
暖かい目線のおばちゃんに、恋の予感を抱くことは、さすがになかった。(つづく)

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