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第四話 タルチョたなびく武蔵野の一軒家

入試で初めて訪れた武蔵野市は、地元の静岡よりも樹木が多く、東京とは思えないような緑に囲まれていた。

駅から大学までの道には「スタジオジブリ」があった。
それは木々に囲まれ、小さな森のようだった。

そして亜細亜大学は、より大きな樹木に囲まれ、受験会場の教室の窓からも木々の梢が何本も見えた。
高校の教室で感じていた無機質感はなかった。
付け焼刃での受験だったが、ここから何かが始まる良い予感しかしなかった。
その予感通りに私はその大学に奇跡的に合格した。
入学式の日、武蔵野市は桜の並木道がどこまでも続いていた。

その数日後。
桜の満開時期をすぎ、花びらが舞い散りはじめている頃だった。
キャンパスの向こうから野口健さんが歩いてくるのが見えた。
当時、全くの無名だった野口さんのまわりには、誰もいなかった。

テレビで見たあのワッペンがいくつも張られた薄手のフリースを着ていたから彼だとすぐにわかった。
私は勇気を出して話しかけてみた。
「エベレストに挑戦した記事を読みました」
そんな切り口で話しかけたと思う。

「おっ、あれを読んでくれた人がいたんだ」
テレビで見た時の寡黙な印象とは違い、野口さんはいきなり堰を切った濁流のように、私に語りかけてきた。

「去年のエベレストは天気が悪すぎたんだ。敗退じゃない。撤退しただけなんだ」
今振り返れば、人知れずエベレストに挑戦していた野口さんにとって、そのことを知っていた人がいたことが嬉しかったのだと思う。
そして今振り返れば、野口さんは強がっていた。

野口さんは、5月にはヒマラヤの高峰にトレーニングで行くということを話しはじめた。
「6000m峰や7000m峰を登らないとエベレストのトレーニングにはならないんだよ。日本の山を登っても意味がない」 
まるで現実味のないことを野口さんは話していた。

何しろこちらは、日本の山もそんなに登ってないのに、いきなり6000、7000mと言われても訳が分からない。
「6月に6000m峰に登って、帰国してスポンサー周りをしたら、8月頭にはエベレスト遠征に出発だ」

そこから続いた彼の言葉が、衝撃的だった。

「お前もエベレスト、一緒にいくか?」

初対面の人に、いったいこの人は何を言っているんだろうか? 今ならそんな思いにしかならないだろう。
だが、その時私の口から出た言葉は
「はい。行きます」
だった。

「そうか。そうしたらまず山岳部に入部だな。明日はメインストリートに山岳部がブースを出すから、行ってみろ」
と、言って野口さんは、キャンパスの人ごみの中に消えていった。

エベレストに誘われたのか、山岳部の勧誘だったのか、よくわからなかったが、私は翌日、山岳部のブースに行ってみることにした。
翌日のキャンパスには桜の花びらがさらに舞い踊っていた。おしゃれに着飾った新一年生に、学生がサークルへの勧誘活動を続けていた。
サークルや部活の名前が書かれたコンパネの立て看板が並んでいる。

しかし山岳部の看板は、横幅30センチ、高さ50センチほどの小さなものだった。それが、地面に置かれていた。
この雑踏の中では気が付かれもしない。
そして、そこには部員が誰もいなかった。

そこでしばらく待っていると、小柄で引き締まった体形の髭面の男が現れた。
民族衣装のようなだぶだぶのズボンにボロボロのTシャツ。
肩に下げられたショルダーバッグは編み込みのもので、どう見ても現代的なものではなかった。
「お前が大石か。健ちゃんから聞いてきたよ。よく入る気になったなぁ」
私が入部し、他には誰も入らないことを前提にしているような口調で、彼は言ってきた。
彼は「田附秀起」と名乗った。
「山岳部で住んでいる家があるから、そっちに行こう。今日は、健ちゃんはいないけど」
そう行って田附さんは歩きだした。
訳がわからなかったがついていく。

キャンパスを出てからものの5分もたたずに田附さんは言った。
「もうすぐそこ」
住宅に挟まれた幅1mほどの細い通路を入っていくと、その先に雑草だらけの庭があった。

庭を横断して、細いロープがかけられ、そこに赤、青、黄色、紫、と多色の小旗がつるされていた。
鮮やかな色ではなく、どれもくすんだ色。
すべての小旗には見たこともない文字が書かれていた。

その向こうにツタで覆われた木造の一軒家があった。
私は、その旗とツタが「結界」のようだと思った。
その家は、だれも入っていけないような雰囲気を醸し出していた。
家の中に入ると、ネパールの民族衣装を纏った女性や、ヒマラヤの山々の写真が壁にいくつも貼られ、棚にはやはりネパールのものと思われる短刀が飾られていた。

ネパールのものだけであれば統一感があっただろう。
しかし、そこには大相撲の貴乃花のポスターや、昭和レトロな温度計などもあり、混沌とした雰囲気を醸し出していた。
「去年は、野口さんと、マネージャーの宮下、あと登山家の大蔵さんでエベレストに行ったんだ」
そういいながら田附は、VHSテープをビデオデッキに差し込んだ。
いきなり外国の登山家が、猛吹雪の中、英語で叫んでいた。
「これは悪魔のダンスだ。もう、今シーズンのエベレストは終わった」
その吹雪の中を、田附さんと野口さんが果敢に登っていた。
7000m近くになると、田附さんは動けなくなる。
凍り付いたかのように白くなった彼の顔を野口さんがアップで撮っている。画面の中の田附が
「俺はもう降りるよ……」
とぼそりと言った。そしてこう続けた。
「健ちゃん、死なないでね。生きて帰ってくれば、次があるじゃん」
田附さんはそう言って、ひとりで白い斜面を下っていく。

そこから上の映像はなく、ベースキャンプのトランシーバーだけが映されていた。
そして上部キャンプにいる登山家と野口さんの交信だけが流れる。
「この岩も登るんですか?」
「そうだそこを越えれば、あと30分で第三キャンプだ」
だが次のシーンは、田附さんと野口さんがベースキャンプに向かってトボトボと下ってくるものだった。
エベレスト登山の壮絶な撤退映像だった。

東京の住宅街の路地の奥で、人知れず混沌とした空間になっているこの一軒家。
その家と、エベレストで行われていた孤立無援の冒険は、どちらも「隔絶感」があり「浮世離れ」しているという点では合っていた。
そう思っている時だった。
いきなりドアが開き、小柄のショートカットで、目の大きな女性がレディーススーツ姿で入ってきた。

ネパールと大相撲の混沌としたカオス空間で、スーツ姿の女性は違和感しかなかった。
彼女は、
「はじめまして、山岳部マネージャーの宮上です」
と言ってきた。

就職活動をしているのかと思いきや、エベレスト遠征のスポンサー活動をしてきたのだという。

「今年のエベレストは『清掃班』を作ることにしたから。そのことを今日はスポンサー活動で話してきた。大石君が掃除をしてくれることになって良かったよ。野口さんは、まだスポンサーの方とミーティングをしているから」どうも私は、エベレストでその「清掃班」をやるということになったらしい。
だが、昨日そんな話は、一切聞いていない。

その2年後、野口さんはエベレストの「清掃登山」を本格的に行うようになり、その姿は、ネスカフェのコマーシャルなどに使われ、多くの人が知ることになる。
だが、当時の私にはエベレストで「清掃班」などと言われても全く意味が解らなかった。

戸惑う私に田附さんが言った。
「エベレストから帰ってきても大石はまだ1年だからな。他の場所にも絶対に行きたくなる。遠征費を貯めるには、家賃を浮かせるのが手っ取り早いんんだ。お前もここに住め」
二階の部屋はまだ空いているとのことだった。
その二階へは一度外に出て、家の裏手にある鉄製の外階段を上がっていかなくてはならなかった。
田附さんに案内されていくと、二階には廊下の左右に小さな部屋が6つあった。
この家は、1960年代までは多くあった「下宿屋」の作りだった。
こんな建物がまだ90年代の終わりにあったとは……。

だが、もうそこも一部屋しか使われていないとのことだった。
その部屋に住んでいるのも山岳部OBだ。ドアに向かって田附さんが、
「長尾、新入生がきたぞ!」
と声をかけたが、誰も出てこない。
「長尾、寝てないで起きろ! 新入生が来たんだ! 起きろ!!」
田附は執拗にドアをノックし続けていた。
最後の方は、ノックではなくパンチと大声になった。。
だが、どう考えても留守だ。
誰もいない部屋に、大声を上げ続ける田附さんは、恥ずかしくないんだろうか、とその時は思った。

しかたなく、1階に降り、リビングで田附の話を聞く。
田附さんと留守の長尾さんは同期だったが、長尾さんは4年で大学を卒業し、今はフリーター1年目。
田附さんは大学5年生をやっているという。

そこに、二階からいきなりメローなギターの音と歌声が聞こえてきた。「How many rose must ~」
ボブディランだった。
「やっぱりあいつ、居るじゃねえか」
と言って、田附さんが再び二階に上がっていく。
すぐに田附さんと共に、長身の男が出てきた。

先ほどは居留守を使っていたわけではなく、昼寝をしていたらしい。田附さんが言う。
「こいつ、昼寝しちゃうと絶対に起きないんだ」
「山岳部のOBで、長尾っていいます。よろしく」
と彼はゆっくりとした口調で言った。

田附さんと、この長尾さんと、野口さんの3人で今年はエベレストを目指すのだろうか? 少なくとも田附さんは、去年のリベンジで行くだろう。
「いや、俺はいかないんだ」
田附さんは躊躇なく答えて、こう続けた。
「今年はミシシッピー河を源流部から河口までカヌーで下る」
去年エベレストに挑戦した人が、今年はミシシッピー?? 
私は訳が分からなかった。

混乱する私をよそに田附さんは、ペラペラとよくしゃべった。
「先月は、ミシシッピーの源流から河口まで下見をしてきたんだけど、車でも一週間もかかったんだよ。3700キロもあるんだぜ。めちゃ暑かったのに、安い車だから冷房がなくて。まっすぐな道で片足を窓から出しながら運転して……」

では長尾さんは、エベレストに行くのだろうか?
「いや僕はそんなに山は登ってなくて……。大学の時は、自転車での旅が多かったんだ。日本を一周したり、アメリカを横断したり。あんまり厳しい山は登ってないんだ。今は、飛行機のパイロットになることを目指して、ここで試験の勉強している」

果たして、これは山岳部なんだろうか?? そう思っているとさらに長尾さんは不思議なことを言い出した。
「エベレストは行かないけれど、野口さんが5月にヒマラヤの6000m峰にトレーニングで行くから、それには山頂までついていくつもり」
それまでほとんど自転車しか乗ってなかった長尾は、それが初めての本格的登山になるとのことだった。

当時、「ヒマラヤ遠征」と言えば、研鑽を重ねた登山家が、大きな登山隊に入っていくのが普通だった。
初級者がいきなりヒマラヤに行くということは、どう考えてもおかしな話だった。

混乱する私に、宮上さんが、唐突に言った。
「大石君に、ハムスターと亀のこと言ってなかったでしょ」
宮上さんが、リビングに並べられた衣装ケースを開けると、そこにはハムスターが動きまわっていた。
二匹ずつ、3つのケースに分けられて入っていた。
部屋の混沌とした空気感が、より濃くなった気がした。

「庭には、亀もいるから」
そして宮上さんは、こう言った。
「大石君は、毎日、ハムスターと亀に餌をあげてね! こういうことがしっかりできない人は、山でも生き残れないから」

他の大学の山岳部は、新人合宿、夏合宿、冬合宿、春合宿と、1年のスケジュールが組まれており、新人にその説明をしている頃だったのだろう。
そして、キャンパスの階段なんかを使って歩荷のトレーニングをしていたに違いない。
だが、亜細亜大学山岳部にはそんな部としての山行計画やトレーニング計画などまったくないようだった。
唯一計画的だったのは、毎日、このペットたちに餌をあげるということだった。

「私は今年も、エベレストにいくからね!」
一番エベレストから遠そうなレディーススーツ姿の宮上さんが、はつらつとした声でそう言った。
テレビで野口さんを見た時「この人はシステムにとらわれていない人だ」と思った。

だが、彼の後輩たちも常軌を逸した人たちだった。

入っては行けない場所に、踏みこんでしまった気もした。
怪しげな庭のロープをくぐり、「結界」の中に入ってしまったのだ。
しかし、逃げるならまだ間に合いそうだった。

その時、田附さんが言った。
「家賃は、ひと月1万7千円だけど、大石住むよな?」
その「安さ」にひかれたのか、あるいはその混沌とした空気が「アリ地獄」のような吸引力を持っていたのか……。私はまたしてもこう即答していた。「はい。宜しくお願いします」

庭には、風に揺られ、あの怪しげな旗が揺らめいていた。
田附さんが言った。
「あれはチベット仏教のタルチョっていう旗。風に吹かれる度に、そこに書かれたお経を唱えるのと同じ効果があるんだ。」

そしてこう続けた。
「あの旗は、自分の願いも唱えてくれているって、俺は解釈しているけどね」
こうして、4年間にも及ぶ共同生活と、辺境の山々への日々が始まった。

25年たった今、巷では「シェアハウス」という共同生活が流行っている。私は、仕事の飲み会の時など「学生の時はシェアハウスに住んでいまして」と、自己紹介をしているが、誇張表現も甚だしい。「シェアハウス」という、おしゃれな響きからは遠くかけ離れた、ひたすらに怪しい一軒家だった。(つづく)

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