なぜ「日本的」な組織にこだわるのか?

先日、河合隼雄やユング心理学を参照して、「日本的」なティール組織、ということを自分なりに掘り下げてみた。
前編後編にわたって、長々とした文章だったのにもかかわらず、ありがたいことに、多くの方に読んだと言っていただいたし、感想や質問などもいただいた。

その中で、これが一番多くもらったコメントだった。

「なぜそんなに『日本的』なことにこだわるのか?」
「日本も西洋もなく、結果的には同じ世界を目指してるんじゃないのか?」

それは仰る通りだし、結果的には同じことを目指すのだとも思う。この点について、少しだけ、補足的な文章を書いてみたい。

もとになった2つの「違和感」

もともと、なぜ「日本的なティール組織」、「日本的な”次の世代”の組織」を考えるようになったのか?

改めて丁寧に振り返ると、2つの「違和感」が根っこにある。

1つ目は、端的に言ってしまえば、「自分が違和感を感じた」から。とても感覚的な話で、それ以上でも以下でもない。
ティール組織の原著(“Reinventing Organizations”)に出会ったところから始めて、HolacracyやS3といった体系だったものを色々と知った。それぞれに「面白い」「すごい」「良く出来てる」と思ったのだが、どこか「しっくりこない」感じがあった。

自分がどこまで日本人の「標準」や「平均」に近いかは知らない。ただ、少なくとも、人生の大半を日本で過ごし、日本企業でしか働いたことがない自分が抱く「違和感」には、何かしらの意味はあるんだろうと思っていた。

2つ目は、ヨーロッパで感じたハッキリとした「違和感」
前編でも少し触れたNSWというイベントでの一幕。そのときは、私がホスト役となり、「日本で同じイベントを開催するとしたら、どんな場になるだろう?」という話をしていた。
そこに集まっていた十数名のヨーロッパ人。国籍はオーストリア、デンマーク、イギリス、ギリシャ、フランス、など様々で、彼ら/彼女らを「ヨーロッパ人」と一言で括ることにも無理はあるんだけど。

色んな話題に行ったり来たりしている中で、1人の参加者が何気なく、こんなことを言った。

「一人ひとりの個性が発揮されてこそ、世界は美しい。個性が全部混ざり合ってしまったら、それは灰色にしかならない。私はそんな世界は見たくない」

とても控えめながら、それでいて、奥深くから発せられる、そんな嫌悪感がそこにはあった。
「ああこの人は、本当に、個性が混ざるのは嫌なんだ」と、はっきりと感じた。そのことがものすごく印象的だった。

そのあと、武士道の話とか、社会性昆虫(アリとかハチとか)の話とかを交えつつ、「種族全体のため」とか「一族のため」みたいな世界観もあるのでは? と一生懸命に説明してみたものの、最後まで、芯を食って伝えられた感じはしなかった。

根本的に、きっと何かが違う。
得体の知れない違和感が残った体験だった。

日本の文化という「環境」に合わせた進化の形

「日本的な”次の組織”」を考える、というときに、「日本の文化はすごい」とか、そういうことを言いたいわけではない。
ただ、このときに感じた「違い」は、「文化」というくらい漠然とした言葉で表現するしかない、何か根本的な違いに根ざしていた

「利己的な遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンス博士の本を読んでいて、生物の「収斂進化」に関する面白い話があった。

「デザイノイド」物体は、また別の理由でほかの「デザイノイド」物体に似ていることがあります。同じような仕事をしているから似てくる。これを「収斂進化」(convergent evolution)と呼んでいます
これは普通のハリネズミです(図2‐31)。こちらはハリネズミとはまったく関係ないものですが、外見が似ている(図2‐32)。これはハリモグラ。哺乳類に分類されているけれど、卵生の原始的な哺乳類で、オーストラリアやニューギニアに生息しています。その生活ぶりはハリネズミとはだいぶ異なっている。こちらはアリを食べるのですが、ハリネズミのほうは昆虫やミミズなど、もっといろいろな物を食べる。ただ両方ともトゲトゲの外皮で敵から身を守っているので、表面的には姿が似ています。収斂進化の良い例です。(「進化とは何か ドーキンス博士の特別講義」より)

「”次の時代”に合った組織」として目指す先は、文化や環境の違いなど関係なく、きっと、ものすごく近い。
ただ、ドーキンス博士の言う「収斂進化」という話と同じことが言える。「日本の文化」という「環境」に適した進化の仕方が、何らか存在するはずだ。

多様な国籍、多様な文化が混ざっている組織。
今までの「日本的な組織」を経験していない人だけによる組織。
まったくのゼロから作り始める組織。

そういう場合であれば、敢えて、「日本的」だなんてことは、考える必要はないのかもしれない。
ただ、「日本の文化」の上に成り立っている組織、「日本の文化」を色濃く持っている人たちは、いま時点でたくさん存在する。そういった人や組織にとって、どういった「進化」が可能なのか、意味があるのか。

それを考えるが、結果的に日本の文化における「次の組織」を見出すことにもなる。
そして、違った文化の上で、同じような進化の過程で試行錯誤する人にとっても、ユニークな示唆が提供できるはずである。

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「日本的なティール組織」を、河合隼雄を通じて考える

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